KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年11月号
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の途中からは、横浜外国人チームに移籍。ベイスターズの本拠地、横浜スタジアムのルーツである横浜彼ひが我公園クリケットグランドでもプレーしたと思われ、時には古巣の神戸クリケット倶楽部とも戦い、42歳になる1888年まで現役で競技を続けた。一方で野球にも興じ、1880年の6月と11月のアメリカ海軍戦艦リッチモンド号乗組員との試合で、神戸居留地外国人チームのメンバーに名を連ねている。しかし、同じくバットでボールを打つクリケットのようにはいかなかったようで成績は芳しくなく、いずれも大敗を喫している。神戸の外国人のスポーツクラブと言えば、来年で創立155年を迎える神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブ(KR&AC)だが、グルームはその行事でさまざまなスポーツに挑戦しており、1870年にはクオイト(蹄鉄投げ)の初戦でハンター(Edward Hazlett Hunter)に勝利しベスト4入り、フット・ペーパー・ハントという鬼ごっこのようなゲームでも2位になっている。翌年の水泳大会では潜水と着衣200ヤードで優勝、走り高跳びと2マイル徒競走で2位、1872年は300ヤードハードルで優勝、1876年には神戸で初めておこなわれたラグビーの試合、KR&AC対イギリス軍艦モデステ号戦でスリークオーターバックとして勝利に貢献し、1877年の潜水でも30代にして39ヤード(約36m)を潜って優勝した。スポーツマンのグルームは、草創期のKR&ACの主力メンバーとしても存在感を示していたという。東遊園地 イラスト/米田 明夫117

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