KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年10月号
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できる人です。だから多刀流、つまり、どれが本人でどれが他人かの区別がつきません。多分、全員が自分でしょう。この辺りでひとつ、自分の中の他者を他者と思わないで、これも自分だと思ってみたら、如何でしょうか。思っている人は、自分はひとりですが、僕のように自分の中に小さい自分が沢山いると思っている者にとっては、自分は複数人間なのです。自分の中に自分も知らない未知の自分がいると考えた人にとっては、その人は複数人間ですが、自分がたったひとりのこの自分しかいないと思う人は最後まで1人でしょうね。僕は自分がカメレオン的存在だと思っているので、自分の知らない自分が出てきても、ああ、こんな自分もいたのか、と思うのです。ですから、僕は自分の生活も創造も全て、自分の中の複数としての自分、小さい無数の自分がいることを認識しているので、僕はいつもひとりでありながら多数なのです。果たして自分の中に別の自分が何人いるか考えてみてください。そして、他人の力を借りないで自分の中の他人の力を利用してください。ドジャースの大谷選手は、打者でありながら、投手でもあり、走者でもあります。投げない日は野手をやれば四刀流になります。彼は野球に関する全てがはないでしょうか。ところで僕は、コラボにはそれほど興味はないですが、ミュージシャンのジャケットや俳優のポスターなどをデザインすることがあります。これも例えば、ミュージシャンのGLAYとか、歌舞伎俳優の尾上右近のためのデザインとすると、これもコラボと呼ばれているようです。第三者の共作によるコラボよりも、僕は自分自身とのコラボに興味があります。どういうことかというと、僕は僕の作品の中の多様なキャラクター(主題や様式)とコラボしています。言い方を変えれば、僕は僕の中の他者とコラボします。僕の場合は複数の様式を持っているので、その複数の自分をピックアップして、それとコラボするのです。これをもう1人の自分と呼んでもいいのではないでしょうか。人は自分の中に何人もの複数の自分がいるはずです。そのことに気づかない人は、自分のアイデンティティはひとつだと思ってます。僕は逆に、僕のアイデンティティは複数あることを認識しています。自分はひとりだと『海の小娘』復刻(888ブックス発行) 宇野亞喜良(青の部分) 横尾忠則(赤い部分) 梶祐輔(文)16

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