KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年10月号
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1895年に1億円を突破しており、ゆえにホテルの需要も伸びているはずで、ベギューの個人経営からグルームらビジネスマンが加わって企業化されたというのが実際のところなのではないだろうか。一説ではベギューが去ってから評判が落ち経営が振るわず、グルームが彼の息子を招聘したとあるが、資料上この説は疑わしい。グルームも味にこだわりがあり、より新鮮な食材をと灘の別荘に畑を耕し西洋野菜を栽培、特にアスパラガスは好評だったそうだ。肉類は華人市場から仕入れたが、子豚やひな鳥は入手できなかったので、残飯を餌に別荘で養豚・養鶏まで手がけていた。また、天皇陛下がご来神の際にオリエンタルホテルの日本人シェフが調理したステーキを召し上がったが、そのためにグルームは母国から料理本を取り寄せ、つきっきりで焼き方を指南したとも伝わる。グルームの経営手腕もあり、ホテルは賑わい手狭となったため、1898年頃に87・88番にも建物を設け拡張する。さらに1908年には海岸通6番の約600坪の土地に、「風見鶏の館」を手がけたゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande)設計の新館が完成。地下1階、地上5階の壮麗な建物は「関西一の洋館」と絶賛された。しかし、日露戦争後のインフレで建築費が高騰たこと、さらに不況で負債が膨らんだことが重荷となり、1917年、オリエンタルホテルはセメント王として知られる浅野総一郎の東洋汽船の手に渡った。旧居留地 イラスト/米田 明夫117

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