子を記している。《一日私も闘牛見物に会場へ出掛けた。みぞれの降る寒い日だった。天候に祟られてその日の入場者は極めて少なかった》と始まり、こう続く。《スタンドの所々から人々は外とうのえりを立てて、声もなくリングを見降ろしている。その会場に立てこめている異様な空気が私の心に冷たく突き上げてきた。恐らく西宮球場が、あのような一種異様な悲哀感にぬれ、ふしぎな緊張感に満たされたことは後にも先にもないことだと思う》そこで井上はこう決意する。《私はその日の会場の詩を書きたいと思った。その会場の悲哀は、闘牛そのものから来るものではなく、終戦後一年半の、あの時代の日本が、日本の社会が、日本人のすべてが、意識すると、しないに拘らず、だれも持っていた悲哀に他ならなかったから》神戸、西宮…。新聞記者として暮らしたこの兵庫の地から芥川賞作家は生まれた。=続く。(戸津井康之)上は一人、家族と離れ、母の実家があった静岡県で祖母に育てられる。沼津の高校から金沢の高校に転校し、詩の創作や柔道に没頭する。1930年、九州大学に入学するが2年で中退し、京都大学へ。1935年、京大在学中に結婚し、翌1936年、大学卒業後、当時、通称“大毎(だいまい)”と呼ばれていた現在の毎日新聞大阪本社に入社。学芸部記者となった井上は「猟銃」や「闘牛」などを次々と執筆する。「猟銃・闘牛」(新潮文庫)には記者時代に書かれた三篇が収録されている。「闘牛」の主人公、津上のモデルは、井上と“大毎”同期入社の小谷正一である。後に、戦後を代表するイベント・プロモーターとして名を馳せる小谷は、毎日新聞系列の夕刊紙「新大阪新聞」の編集局長として、新聞拡販のために1947年、西宮球場で闘牛イベントを企画する。四国の愛媛・宇和島の伝統行事「闘牛」を都会で再現しようという“興行師”小谷の野心的な試みだった。終戦直後、「闘牛」は残酷だとしてGHQにより一時中断されていたこともあるリスクの高いイベントを、小谷は“剛腕”を発揮し開催までこぎつける。それが、いかに無謀なイベントだったか。小説の中にそれを象徴するような津上のセリフが出てくる。《「知っています。新聞社としても、もともとこの仕事は賭博です」》「闘牛」開催直前の当時の三宮駅前の描写も臨場感がある。《牛行列の記事も写真も支障なく到着し、それらがすでに仮刷り三分の一を埋めていた。三宮駅前で牛行列が出発する時撮った写真の取扱いが、少し眼をむきすぎた嫌いはあったが、大会を明後日に控えたこの際、紙面がいくら派手であろうと、派手すぎるというわけはなかった》同年1月、この前代未聞のイベントは3日間連続で「西宮球場」で開催された。井上は最終日に球場を訪れている。「井上靖全集」の中で「闘牛について」と題し、その様131
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