KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年9月号
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が、鉄道建設予定地となってしまった。この問題で一時、グルームと当局の間でトラブルとなったとも伝わるが、神戸の発展のためにはやむを得ないと思ったのだろう、最終的には和解した。その結果、グルーム一家は退居を余儀なくされ、ビジネス面の支援者でもあった兵庫の網元、川西善兵衛のとりなしにより1873年、栄町に新居を構える。ちょうど同年に長女の千代、前年に長男の亀次郎が生まれたところなので、結果的に良いタイミングでの転居になったのかもしれない。新たな家族ができて仕事にも張り合いが出てきたのだろう、グルームは着実に実績を上げていき、1880年頃にはハイマンに次ぐ商会のナンバー2になっている。森鴎外が「されば港の数多かれどこの横浜にまさるあらめや」と綴るのはもう少し後のことだが、神戸より先に開港した横浜はこの頃、日本一の貿易港として君臨していた。モーリヤン・ハイマン商会もここにオフィスを構え、この頃実質的に経営のトップとなったグルームも1883年前後より横浜に拠点を置き、神戸と行き来しながら主に生糸の輸出を手がけていた。しかし横浜での事業は順調に進まなかったようだ。諸説あるが、グルームは1890年に横浜を撤退して神戸に戻り、居留地の播磨町34・35番で茶の輸出を再開したが、1893年頃に商会を離れたようだ。旧居留地 イラスト/米田 明夫129

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