街のたたずまいも変化し時代がバブルを迎えた頃、転機が訪れた。「大学四回生の時、料理に興味を持ち居酒屋でアルバイトを始めました。最初は厨房で調理をしていましたが、いつしか流れてくる伝票をこなすだけになっていました」。そんな時、店長から表回りを命じられ自分のお客様が来店するようになった。「こっちの方が向いている」と確信し卒業後は社員として経営ノウハウを学んだ。独立を模索する中、腕の立つ料理人を探していたところフランス料理店と掛け持ちするアルバイト店員がいた。「彼がその男です…」視線の先にはカウンター内で最後の仕込みに取り掛かる戦友の姿があった。友人数名と開業に向け様々なお店を巡りマーケティングを重ねた。「当時、コンクリートの打ちっぱなしが流行っていましたが自分の思い描く内装とは違いました。イメージを伝える為、設計士と共に先端を行く東京へ足を運びました。当初、ビルの上階でやるように言われましたが1階にこだわりました。サンドウィッチのような軽食からスタートしましたが時代と共にピッツァやパスタといったフードも提供するようになりました」。全盛期には阪神・淡路大震災で隣接するビルが倒れ店舗が半壊。駆け付けたアルバイトの姿を見ながら「これは出したもん勝ちやな」と奮起。破損した部分をベニヤ板で補強し三ケ月後には再開した。近年ではコロナの影響により自粛を余儀なくされた。「8時がラストオーダーでしたから(笑)家にいる時間が長くて大変でした。あれ以降、街の装いは変わりました。ただ、うちは常連客に支えられました。親子連れで来ていた子供が大人になってから二世代で通ってくれるようになり嬉しかったです」。この日は、かつての仲間が共にゴールを切るため集結。「自分には何ができるのだろうと思いながら飲食店をしてきました。こうして、たくさんのお客様やスタッフに囲まれながら終わることができ幸せ者です。今後、新たなお店をやる可能性はゼロです(笑)」。インタビューが終わると「みんな表に出て」と声を掛けトレードマークだった青く灯る看板前に集合。笑顔で卒業写真におさまり、36年の歴史に中島さん自らの手で幕を引いた。(インタビュー・文 岡力)閉店前日に伺い中島光繁さんにお話を伺った81
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