KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年8月号
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来はできれば郵便配達夫になりたいと思っていました。ところが、いよいよ将来を決定する時期に突然、先生が東京の美術大学に進学するように勧め、あっという間にその手配をしてしまいました。仕方ないので、受験をすることになって上京したところ、すでに東京に帰っていた美術の先生が突然気が変わって、「明日の受験を止めて故郷に帰りなさい」と言って、受験当日に僕は故郷に帰らされてしまいました。ここで先ず、人生が狂いました。突然の先生の心変わりで、僕の身の上まで変わりました。そうこうしているうちに、郷里から何キロも離れた加古川市の印刷所に、郷里の織物祭のポスターが1等になったことで、スカウトされたのです。想像もしていなかった展開です。ところが10か月後に僕はこの印刷所を解雇されました。と同時に、神戸新聞のカット投稿の常連の1人から声がかかって、5人でグループを結成しました。そして、神戸の元町の小さい喫茶店でグループ展の社会は崩壊するよ、といわれそうです。そうです、その通りです。でも僕は幸か不幸か、いつの間にか知らず知らずのうちに宿命と運命の支配に従わざるを得ない現実的直面に遭遇してきたのです。大谷翔平選手は、10代の頃にすでに自分の一生の計画を立てて、その通りに生きようとしているようです。そして現在まで、ほぼ実現してきたかに見えます。そういう意味では、彼は運命論者ではありません。自分の意志と想像に従って、運命を切り開いています。そしてそのためには、人後に落ちない努力をしています。そんな大谷に対して僕は、全く真逆の生き方をしてきました。どちらかというと、来るもの拒まずの受動的な生き方です。能動的な生き方の反対です。自分の意志に従うよりむしろ、他人の意志に従う、ある意味では優柔不断ともいえるかも知れません。ここで実例を上げて説明を致します。僕は高校時代、将ました。こうなっちゃったんだから、しゃーない、諦めまひょ、という関西独特の諦観思想です。ここには、個人の自我も意志も働きません。じゃ誰がこう決めたのか、神なのか、宇宙の意志なのか、それとも宇宙の法則か、そんな人間知を超えた、計り知れない何かでしょう。そんな馬鹿なことはない、人間には人間としての生まれながらの自由意志がある。だから、こんな訳のわからない問題など持ち出されたら困る。これじゃなんのために人間が存在しているのかわからない。全く意味がないじゃないかという、知性と感性の持ち主は、このような宿命とか運命に対して無視した生き方をされることでしょう。また、このような人間が圧倒的多数であることも事実です。宿命とか運命は架空の産物である。このような概念を持ちだす奴は、反人間主義である。このような概念を肯定されると、人間は努力をする必要がない。自我もエゴも欲望も煩悩も不用だという、こ18

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