KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年8月号
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復員後、島尾は実家のあった神戸に戻り、文学活動を始めた。島尾はミホを神戸へ呼び、1946年3月、結婚。二人の子供も神戸で生まれた。彼は現神戸山手短期大学の非常勤講師や現神戸市外国語大学の助教授として働きながら、1947年10月、同じく復員兵の作家、富士正晴らとともに神戸を拠点とする同人誌「VIKING」を創設。作家として精力的に作品を発表し続ける。彼が創設した「VIKING」からは、その後、高橋和巳や久坂葉子、久坂の連載を本誌で手掛けた久坂部羊ら数々の有名作家を輩出している。彼は「ヤポネシア」という言葉も生み出した。日本という「国」を「島々からなる列島」という概念でとらえていたのだ。ミホの存在が大きく影響していることは間違いないだろう。 二人が〝死の淵〟から生還し来年の夏、日本は戦後80年を迎える。=終わり。次回は作家、井上靖。(戸津井康之)ミホの方言のイントネーションは、「島尾さん夫婦のご長男、伸三さんがセリフを自分の声で録音してくれました。それを聞いて私はセリフを覚えたんですよ」と教えてくれた。「敏雄生誕100年・ミホ没後10年記念総特集 島尾敏雄・ミホ/共立する文学」(河出書房新社)の中に、ミホが講演で敏雄の特攻について語った話が収録されている。《彼が特攻戦で出撃するときには、私はこの形見の短剣で自決しようと心の中でそっと思いました》ミホは自決を覚悟するほど敏雄を愛していたのだ。《それほど遠くない日にそれはまいりました》運命の日は刻一刻と近づいていた……。二人の運命1945年8月13日の夕方。ついに島尾の部隊に特攻命令が下され、それを伝えるために彼の部下がミホのもとへ駆け付けた。《『隊長が往いかれます、隊長が往かれます』といって縁の沓脱ぎ石のところで泣き伏しておりました》ミホの回想は続く。《私は井戸端にいって井戸の水を汲んで、自分の身を清めてから、真新しい肌着と襦袢を身につけました》島尾の出撃を見届けてから死のうと、ミホは浜辺に向かった。《わたくしはその浜辺に正座して短剣をじっと抱いて時の至るのを待っておりました》13日未明から14日朝方にかけて。島尾の隊への出撃命令は出ぬまま翌朝を迎えたが、部隊はそのまま待機し続けていた。《わたくしにとりましても、同じく死刑台の上に在るような…》ミホは島尾の出撃を待つ間の心境をこう吐露する。特攻命令が出ないまま、8月15日終戦。《隊長をはじめ搭乗員全員が、そしてわたくしも死の淵から生の側へと立ち戻り、戦後を生きることになったのでございます》生死の間際をともに海辺で見た二人は生き延び、結婚を誓いあう。129

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