KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年8月号
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るので、会社の現状と将来を考えてのことなのかもしれない。そして1870年7月、グラバー商会は倒産する。グルームはその前月、「Merchant and General Commission Agent」を開業したと告知しているので、このタイミングですでにグラバー商会を辞し独立したと考えられる(ただし、1871年に辞めたという資料もある)。そこには「Office at the Temple, Main Street」とあるので、オフィスは西国街道沿いの善照寺、つまり自宅と同じ場所ということになる。「36ガロンのビール樽を26ドルで販売」などの広告を打っていることから、商売の手始めはビール販売だったようだ。しかし、ビールの市場には季節性があって冬は売りにくい。個人での商いに限界があったのか、1871年、グルームはグラバー商会時代の同僚のハイマン(Charles Adolph Heimann)に誘われ、彼がモーリヤン(Walter Mourilyan)と共同起業したモーリヤン・ハイマン商会に出資しパートナーとして入社した。業務は茶の輸出で、主にアメリカへ緑茶を輸出していた。アメリカで緑茶というのは意外だが、特に中西部では緑茶にミルクとシュガーを合わせて飲むのが好まれていたという。日本で抹茶ラテやほうじ茶ラテが定着したのは最近だが、アメリカでは150年以上前にすでに日本茶ラテが愛飲されていた訳で、需要もそれなりに大きかったようだ。ともあれ、グルームは居留地1番の建物にあったモーリヤン・ハイマン商会でキャリアを重ねていく。旧居留地 イラスト/米田 明夫127

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