神戸へやって来たアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)だが、来日直後のビジネスは前途洋々とはいかなかった。もともとグルームは兄、フランシス・アーサー・グルーム(Francis Arthur Groom)がトーマス・ブレイク・グラバー(Thomas Blake Glover)らと共同経営するグラバー商会が神戸開港にあたって開業する神戸支店のスタッフとして1868年に来神した。しかし、同年の大晦日付でフランシスはグラバー商会との契約が満了となったがこれを更新せず、翌日付でジェイムズ・ダウ(James Dow)とのパートナーシップでグラバー・ダウ商会を上海で立ち上げて清でのグラバー商会の業務を引き継いだが、2月の社告欄ではフランシスの名が削除されている。グルームは、兄が去った後もしばらくはグラバー商会の神戸支店で勤務していたとみられる。しかし、戊辰戦争が決着して武器の需要がなくなると同時に、維新により販売先である諸藩から代金の回収が難しくなり、軸の1つであった茶の輸出でも中国人商人との競争に苦戦し、日本の通貨は安定せずで、グラバー商会の経営は思わしくなく、新たに開港した神戸での事業も想定を下回っていた。そんな状況下の1869年、グルームは寄留していた元町の善照寺の山手側の農地の永代借地権を得ている。神戸中町の喜多屋四郎左衛門から165坪を103両2朱で借りたほか、借地はあわせて4名の地主の土地、都合652坪にもおよんだが、当時は外国人の土地所有が認められていなかったので、事実上購入したと考えて良いだろう。グラバー商会のほかの社員たちも神戸で借地権を得てい六甲山の父連載Vol.4A.H.グルームの足跡神戸でのビジネス①126
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