有馬温泉歴史人物帖堺で育ちます。芸歴は中学生の頃からで、同級生とラジオの素人参加番組で漫才を披露すると才能を発揮。高校へ進学せずそのまま二人で松竹へ入り、昭和34年に「堺伸スケ・正スケ」として角座でデビューすると天才少年現る!と話題になるのもつかの間、翌年に相方の正スケが廃業して解散、程なく横山ノックに弟子入りして吉本へ移籍し「横山やすし」となります。それからは後の横山プリンさんやレツゴー三匹の正児さん、バラクーダーの岡本圭司さんら錚々たるメンツとコンビを組むも不調で、相方をメガネメガネ…と探しているうちに新喜劇の研究生だった西川きよしさんとめぐり会い、昭和41年に「横山やすし・西川きよし」を結成すると大ブレイク!正味の話、その頃は高度経済成長の渦中でレジャーの大衆化が進み、全国でヘルスセンターが賑わっておりました。有馬にも桂ざこば師匠、キダタロー氏、今くるよさん、小山乃里子さん。今年になって関西のテレビやラジオを彩ったビッグネームの訃報が相次ぎ寂しい限りでございます。このみなさんが若くてバリバリだった昭和末期、テレビやラジオは娯楽の王様で、お笑い番組もいまよりずっと面白かったですよね?その頃の笑いの発火点はそりゃ大阪で、そしてこの街の象徴である芸能、漫才のトップスターと言えば横山やすし師匠で異論はないでしょう。大阪のイメージそのままのキャラクターですが、実は高知県、しかも沖の島という西のはずれの離島で生まれたというのは意外です。旅館の仲居と旅役者の間の私生児だったそうですが、当時この島は本土防衛の要塞のようなところでしたので、実父は軍の慰問に来ていたのでしょうか。生後3か月で高知へ疎開していた木村庄吉の養子となり、昭和37年に有馬ヘルスセンターがオープンし、天下の名湯に日帰り入浴という新しいニーズが生まれます。ここの舞台で腕を磨いたのが、結成間もないやすし・きよしでございます。昭和42年8月からまる1年ほど、人生幸朗・生恵幸子や島田洋介・今喜多代など大御所の露払いを務め、有馬のステージから全国区へと飛躍し、その後の大活躍、そして不祥事はご存じの通りで。さて、「横山やすし」の「横山」を苗字だと思っている人、怒るでしかし!これはやすし師匠の大師匠にあたる横山エンタツから続く屋号ですが、一説によるとエンタツゆかりの地に由来するとか。そこはどこかと申しますと、有馬ヘルスセンターの母体だった神戸電鉄の駅のある、三田の横山でございます。~其の拾七~横よこやま山やすし 1944~1996115
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