KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年7月号
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来る軍人たちの多くが威圧的で、島の人々からは恐れられるのが普通で島尾のように慕われることなどなかったという。日本の南の小さな島は緑も豊かだった。都会の喧噪で暮らす人々とは違い、島民は皆、穏やかに暮らしていた。そんなのどかな楽園のような島が、大戦末期、特攻兵器「震洋」が出撃する最前線の基地となっていた。現在、基地となった島のあちこちの洞穴に、出撃前の震洋を隠し、カムフラージュしている写真を見ることができる。この平穏な島から多くの命が散っていった。死に直面した軍人たちの精神が荒み、そのいらだちを島民たちに向けていたであろうことは想像に難くない。だが、島尾は違った。言葉遣いも丁寧で、島民には礼節を尽くして接していたため、彼を先生と呼んで親しむ島民たちが増えていったという。その中に、島の小学校で教職に就いていた後に妻となるミホがいた。=続く。(戸津井康之)などに影響を受けながら小説を書き続けていたが、大学を繰り上げ卒業すると、海軍予備学生を志願する。このとき、すでに島尾は死を覚悟し、軍人の道を選ぶのだが、それは自身の想像を超える壮絶な体験の始まりでもあった。特攻を志願大学卒業後、海軍を志願した段階で、すでに島尾は「特攻兵」となる決意を固めていた。当初、飛行科を志望していたが、第三希望の魚雷艇学生となった島尾は、長崎にあった臨時訓練所で水雷学校特修学生としての訓練を受ける。海軍少尉となった島尾は正式に特攻を志願。第18震洋特攻隊指揮官を命じられ、鹿児島県の奄美群島加計呂麻島の基地へ着任する。島尾が志願した特攻は、広く知られる海軍戦闘機「零戦」や陸軍戦闘機「隼」など航空機に爆弾を搭載し操縦士もろとも敵艦隊へ体当たりする特攻とは異なった。島尾ら特攻隊員が乗ったのは「震洋」と名付けられた、ベニア板製の一人乗り(島尾は艇隊長として指揮を執るため搭乗員と二人で乗った)の全長5~6メートルしかない、特攻兵器として製造された小さなモーターボートだった。この「震洋」に爆薬を搭載し、乗員がハンドルを操舵し敵艦に体当たりし、撃沈するのが任務である。戦後の対談の中で島尾は第二次世界大戦中に米軍が作った日本軍の兵器の説明書を見て驚いたというこの説明書には「震洋」の写真が掲載され、その解説として「スイサイド(スーサイド)・ボート」と記されていたというのだ。つまりその意味は自殺艇…。日本軍は最後の決戦用にと「震洋」を秘密兵器として温存していたが、米軍によってその情報は「すでにキャッチされていた」と島尾は明かしている。温和な性格の島尾は軍人となった後も島の中で異質な存在だったという。島尾が指揮官として着任するまで、本土から島へやって131

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