神戸で目覚めた文学への思い小説「死の棘」などで知られる作家、島尾敏雄(1917~1986年)は神奈川県生まれだが、神戸との縁がとても深いことをご存じだろうか。小学校から高校まで。多感な少年時代を神戸で過ごし、後に小説家となる大平ミホと結婚し、新居を構えたのも神戸。二人の子供も神戸で育った。島尾の作家としての根幹が、文学に目覚めた思春期を過ごした神戸で培われたことは間違いないだろう。ただ、その後、第二次世界大戦下、彼に宿命づけられた〝特攻隊員〟としての壮絶な体験が、彼の作品群の中で一際、重要な要素となり、戦後の日本文学史に果たした功績は大きかった。1917年、横浜市で生まれた島尾は身体が弱く、父母の実家があった福島県と横浜を行ったり来たりする生活を送っていた。1925年、現在の神戸市灘区に家族で引っ越し、西灘尋常小学校に転校。小学校では神童と呼ばれ、教師の代りに授業をすることもあったという。その後、神戸尋常小学校へ転校するが、ここで当時、国語教師をしていたのが後の作家、若杉慧で、彼から綴り方など文章の基礎を教わったという。作家となる前。若杉は広島高等師範学校を卒業した後、教職に就き、神戸の小学校で教えていたのだ。その後、作家として1946年に発表した小説「エデンの海」は3度も映画化されている。一作目は鶴田浩二、二作目は高橋英樹、三作目は山口百恵…と、その時代のスター俳優が出演し、原作となった小説は数十年にわたり、ロングセラーとして読み継がれてきた。この「神戸偉人伝外伝」でも以前、紹介した神戸ゆかりの直木賞作家、陳舜臣も、実は若杉の教え子の一人だった。若杉は「陳舜臣と比べ、小学生時代の島尾は目立たない子供だった」と振り返っているが…。若杉の薫陶を受けた島尾は1930年、兵庫県立神戸第一商業学校に入学。山岳部に入って、弱かった身体を鍛えるとともに、積極的に創作活動に取り組み、複数の同人誌に作文や詩などを発表。14歳のときには同人誌「少年研究」の編集発行を手掛けている。旧制神戸商業大学を不合格になった島尾だが、奮起し、九州帝国大学(現九大)へ進学。東洋史を学び、中国文学神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~前編島尾敏雄妻との運命の出会い…神戸で築いた家族と文学の礎130
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