KOBECCO(月刊神戸っ子2024年6月号
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ることは、緊急時にお客様が私の声だとわかり、信頼関係を繋ぐという意味もありました。信念を持ってやっていましたが、クレームもありました。─クレームとは意外です。山形 当時、ほとんど誰もやっていないタイミングや季節感を取り入れた内容で、長くなったアナウンスに「うるさい」とか「映像の画面が見れない」等で、クレームになりました。前述の様に、一人でも倒れたら定時運航できませんし、万が一の時にアナウンスして、機内のパニックを抑え、二次災害を防ぎ、クレームを頂いたお客様のためにもなると信じていました。実際にキャプテンを32年ほど務めてお客様理由による引き返しやダイバートは一度もありませんでした。もちろん幸運もあったでしょうけれど。─何よりお客様の安心があったからこそでしょうね。山形 世界ナンバーワンだと自負しているのは、現役の機長の時にいろいろな方に「飛行機は怖いですか?」と直接訊ねた回数です。1万8千人くらいですかね。そして、その時聞いた不安を取り除く運航をしたのも私が一番だと思っています。例えばB747乗務の時、お客様に「離陸時のトントントンという連続音は何ですか?」と質問されたんです。それは前輪のタイヤが滑走路のライトカバーに接触している音で、まっすぐ走っている証拠なんです。そのように説明するとお客様が「タイヤ壊れませんか?」とおっしゃったんですね。確かに、300キロ以上で踏みつけている訳ですから良くはありません。それからは少しでも不安を取り除こうと、ライトカバーが前輪の2つのタイヤの間に入るようにして離陸するようにしました。技能審査でそれをすると、センターラインとライトカバーが僅かにずれているので「下手だな」と言われましたけど(笑)。アポロ計画に憧れ空へ─空への憧れを抱くきっかけは。山形 私は東大阪市(旧布施市)の出身で、大阪空港へ着陸する飛行機が真上を飛んでいくのを見上げたこともありましたが、一番のきっかけは高校の頃のアポロ計画です。サターンV型という世界最大級のロケットが打ち上げられていました。その時は体調が良くなく不安があったので乗組員はあきらめて、ロケットの打ち上げをやろうと航空工学を志し、国公立大の航空工学部を受験したんですが見事に不合格で受験浪人、その後、体調も良くなり、翌年航空大学校の受験資格が変わって、幸運にも高卒でも受験できて合格しました。─これまで数々の飛行機を操縦されてきましたが、国産のYS-11はどんな機体でしたか。山形 車で例えると「小回りの98

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