大阪を破壊するゴジラ〝平成ゴジラ〟シリーズの幕開けを飾る新作の監督に指名されたのは東宝の重鎮監督たちではなく、新進気鋭の大森一樹監督だった。フリーランスの大森監督がメガホンを託され、平成元年(1989年)に公開された「ゴジラVSビオランテ」は観客動員数200万人を超えるヒット作となった。〝ゴジラ生みの親〟と呼ばれた元東宝映画会長、田中友幸がプロデューサーに指名したのは、後に東宝映画社長となる若手プロデューサーの富山省吾だった。「ゴジラVSビオランテ」の製作秘話を聞くために富山を取材したとき。「当時、田中は新しい時代のゴジラを作るという思いで大森監督を抜擢し、脚本も任せたのです。そして、また、プロデューサーも自分から私に引き継ごうとしていたのです」と振り返った。さらに、特撮シーンを撮る特技監督には、後に〝東宝最後の特技監督〟と呼ばれる気鋭のアイデアマン、川北紘一を抜擢。こうして大森監督は作り手を一新したチームの指揮を任され、平成ゴジラシリーズは動き始める。映画界のそれまでの常識を突き破ってきた大森監督だが、ゴジラシリーズでも、その〝剛腕ぶり〟を発揮しようとしていた。 ゴジラお馴染みの光景として、国会議事堂をはじめ、日本各地を代表する建築物が、ゴジラをはじめ怪獣たちの戦いに巻き込まれ、次々と破壊される場面は大きな見せ場の一つ。大森監督と当時のプロデューサー、富山が、こんな秘話を教えてくれた。「舞台は大阪。当時、建設中だった関西国際空港や大阪城近くの大阪ビジネスパークの高層ビルなどを壊そうと考えていたのですが、すべて許可が必要なんですよ」と大森監督。その許可の問題についてプロデューサーだった富山は「当時、〝ゴジラで壊したい〟と許可を求めると大抵、企業や自治体は協力してくれたのですが、『ゴジラVSビオランテ』の際は難交渉でした」と明かす。とくに、まだ建設中だった関西国際空港について富山はこう説明する。「当時、地盤沈下が問題視されており、最初は猛反対されました。しかし、結局、『ゴジラなら…』と許可してくれたんですよ」と苦笑した。神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊿後編大森一樹監督ゴジラの未来を予見…自衛隊も全面協力142
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