KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年5月号
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日本の実写版ゴジラの通算30作目としても注目された。公開前、山崎監督を取材したとき。「米国の監督にとっては、『スター・ウォーズ』シリーズを撮ることが、大きな夢のひとつですが、日本の映画監督にとって、それは『ゴジラ』シリーズを撮ることなんです」と熱く語っていた。今から35年前の平成元年。ゴジラシリーズ通算17作目の監督に大抜擢されたのが大森監督だった。当時、東宝に所属しない、いわば外様のフリーランスの監督が、ゴジラシリーズの新作で監督に指名されるのは異例の事態だと騒がれた。助監督を経ずに監督デビューを果たしたのと同様、大森監督は、またしても映画界の既成概念を破り、大きな風穴をあけたのだ。大森監督が脚本も手掛けた「ゴジラVSビオランテ」(1989年)はゴジラ新時代を築く〝平成ゴジラシリーズ〟の幕開けでもあった。=続く。(戸津井康之)脚本兼監督としていきなり映画界にデビューしてしまったのだ。しかも、映画公開時には26歳という若さで、まだ現役の医学生だった。かつて東宝、東映、松竹など大手の映画会社には監督候補生を採用する入社試験があり、監督を目指す若者たちは、このコースを経て監督デビューしていった。しかし、大森監督はこの既存の監督養成システムを破った。当時の邦画界では物議をかもしたが、大森監督がこの狭き門を突き崩し、映画監督となる新たな道を切り拓いたことで、その後の日本映画界は大きく転換していく。「とにかく脚本を書け…」という持論は、こんな自身の経験から来ていたのだ。ゴジラとの出会い映画好きの学生が集まり、自主製作からプロの映画監督となる―。そんな夢のような未踏の道を作った功労者の一人が大森監督だった。彼はデビュー後、医学生としての体験を基に描いた青春映画「ヒポクラテスたち」(1980年)を母校、京都府立医科大で撮影。翌1981年には、作家、村上春樹氏の小説を原作に「風の歌を聴け」を映画化するなど頭角を現していく。村上氏は大森監督にとっては芦屋市立精道中学校の先輩でもある。「風の歌を聴け」は村上や大森が青春時代を送った神戸市や芦屋市で全編ロケを行ったことも当時、話題を呼んだ。〝映画界の風雲児〟となった彼の型破りの快進撃は、まだまだ続く。平成の時代を迎えた1989年。さらなるビッグチャンスが訪れる。1954年に1作目の映画「ゴジラ」が公開されて以来、「ゴジラシリーズの新作を、次にどの監督が撮るのか?」という話題は映画界の最大級の関心事のひとつになっている。その関心は今や国境をも超える。現在公開中の映画「ゴジラ×コング 新たなる帝国」(アダム・ウィンガード監督)など海外版ゴジラでは、ハリウッドの名匠たちが次々と新作を手掛けているのだから…。山崎貴監督の「ゴジラ-1.0」は131

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