KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年5月号
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医学生から映画監督デビューゴジラシリーズの最新作「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」(山崎貴監督)が世界各国で大ヒットしている。2年前、70歳で亡くなった大森一樹監督(1952~2022年)は、ロックミュージシャンの吉川晃司や女優の斉藤由貴ら若手をスターに育てる名手として知られたが、〝平成ゴジラ〟を育てたことはご存じだろうか。知られざるゴジラ製作秘話を紹介したい。1984年、吉川が歌い大ヒットした「モニカ」は吉川主演のデビュー作「すかんぴんウォーク」の主題歌だ。その後も吉川主演の3部作や、さらに「恋する女たち」(1986年)の主演女優、斉藤由貴の3部作を手掛けるなど〝銀幕スター〟を育てあげた。大森監督は1952年、大阪市生まれ。父は医師。1961年、小学生のときに父の転勤で兵庫県芦屋市へ引っ越し、地元の芦屋市立精道中学校から神戸市の六甲高校へ進学。映画に魅了された大森少年は早くも高校在学中に自主製作で8ミリ映画を完成させている。医師を目指し、高校卒業後は京都府立医科大学へ進むが、映画への熱意は増し、自主上映グループ「無国籍」を結成し、神戸の新開地で邦画のオールナイト上映イベントを企画。メンバーの一人は当時、関西学院大の学生で後に情報誌「プレイガイドジャーナル」編集長となる村上知彦氏。同学年の二人は意気投合し一緒に自主映画も撮る仲だった。生前、大森監督は、「映画を撮るためには脚本を書くことが重要。とにかく脚本を書き続けることです」と取材する度に話していたのが強く印象に残っている。「この言葉」を実践してきた大森監督は1977年、脚本家の登竜門であり〝映画界の芥川賞〟と呼ばれた「城戸賞」で入賞する。その受賞作「オレンジロード急行」で翌1978年、劇場長編監督としてデビューを果たす。「私がデビューしたとき。映画界は騒然としました」と大森監督は笑いながら振り返っていたが、その理由はこうだ。それまでの日本映画界では監督の下で助監督として何年も修行を積んだ後に監督デビューするのが一般的なコースだった。だが、大森監督は大手の松竹から、助監督経験をまったく経ずに、神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊾前編大森一樹監督映画界の常識に挑む…〝平成ゴジラ監督〟に抜擢130

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