KOBECCO(月刊神戸っ子)2024年5月号
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幕末から維新を経て大正あたりにかけてのわが国は、西洋化、近代化、産業革命がいっぺんに押し寄せて人類史上稀にみる大変貌を遂げた。神戸はその早潮の中で湧き起こる渦のひとつとなり、苫屋の煙立つ寒村から国際港湾都市へと変貌を遂げた。その変化の原動力のひとつになったのは海の向こうからやって来た外国人たちだが、中でも居留地を盛り上げ、六甲に新たな生命を与え、日本にゴルフ文化の種を蒔いたアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)の存在はすこぶる大きい。グルームは自伝を残しておらず記録も多くないために資料は限られ、その内容にも不確かな部分がある。それらのうち事実だと思われる情報をもとに、これからしばらくグルーム伝を綴っていこう。グルームは1846年9月22日にイギリスで誕生した。アール・ヌーヴォーを彩ったガラス工芸家のエミール・ガレや、江戸幕府第14代将軍徳川家茂と同い年にあたる。この年、イギリスでは穀物法を廃止し自由貿易体制へと大きく歩みを進めた一方、日本ではアメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが来航するも浦賀奉行が退去を勧告するなど堅く港を閉ざしていた。彼が生まれたのはロンドンの中心街の北西、ハイドパークとリージェントパークに挟まれたメアリルボーン(Marylbone)地区。現在は高級住宅地で、シャーロック・ホームズ博物館などにグルームが育った19世紀の残り香が漂っているようだ。出生証明書によると、出生地はアッパー・シーモア・ストリート(Upper Seymour Street)の15番となっている。グーグルマッ六甲山の父新連載Vol.1A.H.グルームの足跡生い立ち124

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