ます。父は文学や陶芸など、芸術に興味があって、その才能を受け継いだのは兄弟姉妹の中で下の姉だけでした。作品の中では父を悪く書きすぎています。『灰色の記憶』のマネキン事件も事実ですが、あれで父を嫌いになったということはありません。芥川賞の候補になったときも、姉にはそれくらいはなるだろうという気があったんじゃないでしょうか。茶目っ気があって、自殺未遂をしながらモーツァルトを反復プレイにしたり、自殺のあと発見された原稿に、死後の他人のセリフを先取りしてあったりしてね」自殺については、芳孝氏はこう話した。「姉の死はもともとプログラムされていたものだと思います。家族にもひしひしと予感があって、連絡を受けたときはとうとうやったかという気持ちでした。母と私が現場に行って、トッパーとセーターの色で私が確認しました。死の衝動については、父が反面教師になっていたかもしれません。喘息がひどくて、薬をのんでいるところなどを見ていると、生への執着にうんざりするようなものを感じましたから」実姉の敏子さんには長らくお目にかかる機会はなかったが、二○○六年十二月に、神戸文学館で企画展「久坂葉子がいた神戸」が開かれたとき、初日に会場で会うことができた。七十代後半で、若い人が介護についていたが、私が久坂葉子のことを訊ねると、「あんな妹を持ったら大変ですよ」と、上品に微笑んでいた。もう一人、私が神戸にいたとき、久坂葉子の父の従弟の鬼塚信彦氏が、私の勤務していた神戸掖済会病院に入院していて、その夫人である猶子さんに話を聞くことができた。猶子さんは川崎家の近くに住んでいて、久坂葉子を姪のようにかわいがっていたらしい。久坂葉子も猶子さんには気を許し、親には見せない手紙を見せたり、身体に赤い斑点が出たとき、神妙な顔で相談に来たりしたとのことだった。いっしょにダンスホールに行ったり、鏡の前に寝転んで脚を持ち上げて長さを比べ合ったり、クリスマスに人を呼んでパーティをしたこともあったそうだ。文学の話はほとんどせず、芥川賞候補になったことも、さほど重要視していないようすだったという。死を口にすることもなく、前日に訪ねてきて香水の瓶をくれたが、自殺は猶子さんには寝耳に水とのことだった。猶子さんの前では、久坂葉子は文学も死も語らず、無邪気な姪っ子のようにふるまっていたのだろう。家族にとって、久坂葉子の存在はアンビヴァレントなものだったにちがいない。しかし、その功罪は、今や薄れてしまったことだろう。PROFILE久くさかべ 坂部 羊よう 1955年大阪府生まれ。小説家・医師。大阪大学医学部卒業。外科医・麻酔科医として勤務したあと、在外公館の医務官として海外赴任。同人誌「VIKING」での活動を経て、2003年「廃用身」で作家デビュー。2014年小説「悪医」で第三回日本医療小説大賞受賞。近著に「寿命が尽きる2年前」「砂の宮殿」がある。アルバムより 母・久子と55
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