KOBECCO(月刊 神戸っ子)2024年4月号
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久坂葉子は短い生涯で多くの人と関わりを持ったが、もっとも身近だったのはやはり家族だろう。私が神戸にいたころには、久坂葉子の母久子氏はすでに他界していたが、「久坂葉子研究」vol1に、研究会のメンバーが行ったインタビューが掲載されている。それによると、久坂葉子は早熟で、幼少時からものの見方が特異で、ほかの兄姉弟とはまるでちがっていたとのことだ。ボビという呼び名も自分で言いだしたらしい。私が直接、話を聞いたのは、実兄の芳久氏が最初だった。「久坂葉子の世界**展」の展示品を返却に行ったとき、ご自宅で話を聞いたことは連載の第2回にも書いた。芳久氏は久坂葉子と父親の関係を次のように語った。「久坂は小さいころから親父の蔵書を読んだりするんで、親父もびっくりしながら喜び、号を与えて句会に連れて行ったりしてました。けど、親父はゆくゆくは平凡な妻になることを望んどったわけで、久坂が本気で小説家になろうとしたときには反対してました」芳久氏は取材に協力的で、私に久坂葉子のアルバムを貸してくれ、コピーを取ることも了承してくれた。私が出会った芳久氏は、気さくで闊達な印象だったが、若いころは繊細で、エリート意識の強い父親との関係に葛藤を抱え、久坂葉子に相談を持ちかけたりしていた。だから自殺の報に触れたときには、「身体が畳の中にめり込んでいくような感じに」なったと話していた。一九八八年の七月に私は外務省に入省し、医務官としてサウジアラビアの日本大使館に勤務することになって、一ヵ月間、東京の本省で研修を受けた。その機会を利用して、当時、群馬県在住だった実弟の芳孝氏にもお目にかかることができた。芳孝氏はホテルの喫茶室で、久坂葉子を偲びながらこう語った。「姉は小さいころから想像力が豊かというか、突拍子もない嘘をつくんです。小学校の友だちにパリへ行った話をしていましたが、嘘をついているというより、創作している気持ちだったと思い久坂葉子はとまらない早逝の女流作家川崎家の久坂葉子vol.954

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