KOBECCO(月刊 神戸っ子)2024年4月号
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横尾忠則現代美術館美術家 横尾 忠則1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞、東京都名誉都民顕彰、日本芸術院会員。著書に小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。2023年文化功労者に選ばれる。横尾忠則現代美術館(神戸市灘区)にて『横尾忠則 ワーイ!★Y字路』展、開催中。われわれは何かにつけてあれこれ理屈をつけます。そのため物語に白黒つけたがるのです。つまり、分別と差別でできているのです。これがいわゆる合理性というやつです。もう一つの世界が、無分別と無差別の世界です。そして前者を、感性的、知性的世界と呼んで、大方の人たちはこの世界を求め、尊重しており、そしてこの世界こそ最も重要であるかの如く考えているのです。これは、学校教育全てがこの考えで成り立っています。そしてこの社会もそうです。芸術まで頭で考えて、コチコチに分別しています。こういう世界の人たちの霊性的世界は、この知性的分別世界の背後に隠れて存在しています。そして、無分別、無差別の世界を霊性の世界といっておきましょう。大半の人たち、特にインテリは、知性的分別に繋がれているので、こういう人たちは何事も“いい”、“わるい”と二分しないと承知しません。こういう人は、霊性的無差別の世界を一遍通ってこないと、分析を主とする知性の差別界の理不尽さが理解できません。無分別、無差別の霊性的境涯は、知性的分別の世界から分離したものではないのです。もし分離しておれば、今日の生活と没交渉になります。とにかく、霊性は知性を超えたものだから、思惟や認識の対象になり得ません。だから知性の方から霊性に至る道は断絶しているわけです。鎌倉時代の日本的霊性の覚醒は、知識人から始まらないで、むしろ無智愚鈍なものの魂からであったということです。言葉を変えれば、「アホになる」ことで、無智で無学といわれる人々の霊性への道は割合に直線的ですが、知性の人の場合となると、その知性がなかなかの妨げとなって、彼らの霊性は容易に目覚めないと思います。とにかく霊性的自覚は、分別の否定によって可能ですが、大半の知識人は理屈と分別の世界で生きています。霊性には実態がないが、自覚することによって存在を得ることはできます。最後にひとこと。霊性というものは、“徳”というものとイコールです。徳を積めば、知らず知らずのうちに霊性がついてくるものですが、この徳を積むことを霊性と意識しては成立しません。陰徳を積んで、初めて霊性が得られます。要は、与えられた仕事に何も考えないで無中になる。目的や計画や結末や大義名分など考えないで、まあ無中になれということではないでしょうか。田中さん、ちゃんと書くとこういうことで、かえって難しくなったのではないでしょうか。1919

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