私が神戸に住んでいた一九八○年代には、久坂葉子を直接知る人がまだ多く存命していて、いろいろ話を聞くことができた。久坂葉子の山手高女の同級生、熊野允ちかこ子さんの母親、節子さんにも話を聞いた。久坂葉子は節子さんを深く慕っていて、自殺の当日に書き上げた「幾度目かの最期」も、彼女への告白の形で書かれている。八十歳を超えていた節子さんは、グランドピアノを置いた洋室に座り、久坂葉子の思い出を静かに語ってくれた。「澄ちゃんが亡くなる数日前、この部屋でクリスマスパーティ兼ピアノの発表会をしたんです。部屋の隅で暗い顔をしてたから、お寿司でも食べなさいよって勧めたら、少しつまんでました。何か弾いたらって言うと、アルベニスのタンゴを上手に弾いてましたよ」允子さんが「川崎さんは男っぽい雰囲気で、上級生にも下級生にも人気がありました。嫌いな科目は白紙で答案を出したりして、二年生くらいから学校には来なくなりました」と言うと、節子さんは「そのころ、澄ちゃんはもう大人でしたね。いっしょに六甲山に登って、ススキ野原に座って二人で煙草をふかしたりして」と話してくれた。自殺の当日、節子さんが夜にひとりで部屋にいると、窓の外に人の気配があったらしい。節子さんは久坂葉子だと直感したが、結局、家には入って来なかったという。神戸の旧居留地にある古いビルの二階に、「ゴムクラブ」という天井の高い喫茶店があり、久坂葉子がよく訪れていたと聞いて、マダムの鈴木希世恵さんにも話を聞いた。「ちょっと休ませてって、階段を上がってくるんですよ。そこで寝てらっしゃいと言うと、奥のソファで寝転んでました。〝ぼうや〟っていう男の人がそばにいたみたいですね。そのことはお家の人もご存じなかったんじゃないでしょうか。家を出てしまえばもうどこへ行くのも気ままで、当てなどないって感じでしたから」自殺願望についてはこう話してくれた。「死ぬってのはしょっちゅう言ってましたね。彼女にはいい先生がいなかったんじゃないかしら。だれ久坂葉子はとまらない早逝の女流作家久坂葉子水晶vol.844
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