KOBECCO(月刊 神戸っ子)2024年3月号
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命を奪った原爆など兵器一つ一つを、感情的でなく科学的な知識と目でとらえようとしていた。小松は、地震で日本が海へ沈む過程を科学的なメカニズムに基づいた緻密なシミュレーションによって「日本沈没」を描いた。「日本人が国を失い放浪の民族になったらどうなるだろうか?」。それこそが小説のテーマで、このテーマで書くために、後から考えた設定が「日本列島の沈没」だったという。多感な青春時代、空襲で日本全土が焦土と化すさまを彼は冷静に見ていた。作家となってもこの焼け野原の光景を彼は忘れず、心に刻み、ドン底からの再生の方法を模索し続けていたのだ。今年元日。能登半島で大地震が発生した。小説「日本沈没」は刊行から半世紀が過ぎたが、彼が遺したメッセージは重みを増して現代人へ迫り来る…。=続く。(戸津井康之)教練の教官に、理不尽な拷問を受ける》戦況は激化し、小松の学校生活は勉強どころではなくなる。そして1945年、小松が14歳のときに終戦。《中学三年生。神戸の造船所に工場動員される。「こっそり映画を見る」味をおぼえる。終戦とともに、いろいろな「闇商売」に手を出す》と過酷な環境の中でも彼のあふれ出る好奇心は止めようもなく、決して屈することはなかった。「日本沈没」に込めた真意1945年の神戸大空襲で小松の家も焼夷弾を浴びている。だが、家族不在の中、彼は一人で火を消し止めたという。一人、焦土と化した街を歩いて友人の家を訪ね、そこで彼が見たのは、焼け落ちる寸前の家の前でぽつんと立つ友人の姿だった。《ちょっとはなれた所で、リュックをしらべていた友人のおふくろさんが、こっちを見て、どういうつもりかニッコリ笑っていった。「小松さんとこ、焼けなかったの?︱︱よかったわね」しっかりしたおふくろさんだった。︱︱目の前で家が焼けおちようとしているのに、涙も出さず、さばさばしたような顔をしていた。私は、自分の家が焼けなかった事が、妙にうしろめたいような気がして、うつむいた》8月6に広島、9日に長崎に投下された原爆について、当時、小松は兄とこんな会話を交わしている。《マッチ一箱の大きさで、富士山もふっとばせるとつたえられた原子爆弾の事は、私たちは戦争がはじまるころから知っていた。︱︱アメリカがとうとう、そいつを完成させたか、と、兄と私は興奮して語り合った。妙な事だが、そのものすごい兵器を、アメリカが完成させたという事についての敗北感はなかった。かえって敵が完成させたのなら、日本も、もうじき完成させられるはずだ、というおかしな確信があった》彼は戦争という非常時下にあっても冷静に分析していた。友人の家を灰にした焼夷弾や、一瞬にして数十万の日本人の147

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