務中に久坂葉子が死のことを口にしたのは聞いたことがないとのことだった。ひとしきり話したあと、自分よりもっと詳しい人がいるので紹介しますと、山手高女の一年先輩にあたる上野山(旧姓松山)とし子さんの連絡先を教えてくれた。さっそく手紙を書き、福岡市在住の上野山さんが神戸に来る機会を捉えて、直接、お話をうかがった。竹馬産業への就職は、「灰色の記憶」では新聞広告を見てとなっているが、実際は上野山さんの父親が竹馬産業の重役で、その紹介というのが事実らしい。上野山さんは久坂葉子が履歴書を持って彼女の父親を訪ねてきたときの写真を見せてくれ、「このとき、川崎さんは気がふさいでいるようすでした」と言った。庭に座って上目遣いにカメラを見る写真は、久坂葉子のアルバムにもあり、自筆で「何にうらみがある?」とコメントが添えられている。「何にうらみがあったのかはわかりませんが、働きたいと思ったのは、やはり家が嫌いだったからだと思います。ご家族の上流意識がいやだと言ってましたから」「では、久坂葉子自身には上流意識はなかったんでしょうか」「自分が上流階級であるという意識は強く持っていたと思います。躾もきちんと受けているというプライドもありましたし」当時、上野山さん自身も竹馬産業に勤めていて、部署はちがったが時期は重なっているとのことだ。そして、久坂葉子が仕事熱心だったことを重ねて強調した。上野山さんの父親の紹介で入社した義理もあって、仕事をおろそかにすることはなかったのだろうとのことだった。上流階級のプライドを持ちながら、家族の上流意識を嫌悪し、社会に飛び出した久坂葉子の気持ちはよくわかる。彼女は竹馬産業以外でも、喫茶ガールや佃煮の行商などをして、社会に触れ合っている。苦労知らずで育ったにもかかわらず、十代半ばで一人前の働きをしたのは立派だが、イザとなれば帰るところの久坂葉子の場合は、立場のちがう者から見れば、所詮、お嬢様の気まぐれとも感じられただろう。しかし、彼女は小説を書き、芥川賞の候補にもなって、ますます旧弊な家から飛び出し、自由になる。その自由が、最終的に彼女の死の願望の成就に結びつくのだから、運命とは皮肉としかいいようがない。PROFILE久坂部 羊 (くさかべ よう)1955年大阪府生まれ。小説家・医師。大阪大学医学部卒業。外科医・麻酔科医として勤務したあと、在外公館の医務官として海外赴任。同人誌「VIKING」での活動を経て、2003年「廃用身」で作家デビュー。2014年小説「悪医」で第三回日本医療小説大賞受賞。近著に「寿命が尽きる2年前」「砂の宮殿」がある。書き込み「街頭写真 元町 竹馬産業の店員」53
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