KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2024年2月号
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久坂葉子の写真の中で、私がいちばん好きなのは、白いブラウスにチェックのスカートをはき、陽ざしの中で両手を振りながら歩いてくる姿を写したものだ。背景には闇市らしいバラックが写っている。横に自筆で「街頭写真 元町 竹馬産業の店員」とある。久坂葉子は男爵家の令嬢で、戦後、凋落したとはいえ、生活には何不自由なかったはずだ。それなのに、一九四八年、十七歳のときに彼女は羅紗問屋の竹馬産業に給仕として就職する。理由は「灰色の記憶」によれば、「未だ封建的な固いからをかぶっている家庭」から飛び出して、「自分の感情だけで自由奔放に生きていきたい」からだとある。また、自分を忙殺して、死の衝動を紛れさせようとしたともある。そのような自己本位な動機で働きに出て、まともに社会人として通用したのだろうか。そのことが気になり、私は神戸に住んでいた一九八八年、当時、神戸市中央区元町三丁にあった「竹馬産業」を訪ね、久坂葉子のことを聞かせてほしいと頼んでみた。当時のことを知っているのは、社長秘書の川口晴氏くらいだろうということで、改めて手紙を書くと、川口氏が電話をくれ、自分は部署がちがったのでよく知らないが、彼女の上司だった女性を紹介しましょうと、佐藤(旧姓岩崎)睦子さんの連絡先を教えてくれた。そこで佐藤さんに手紙を書き、電話で問い合わせると、次のように教えてくれた。「あのころ、わたしたちは戦災に遭って生活もままならなかったけれど、裕福なはずの川崎家のお嬢さんがどうして、と驚きました。川崎さんは言葉遣いもていねいで、字も上手だし、来客の応対もできました。働きぶりはきさくで、用事を頼んでもいやな顔をせず、仕事も早いので、私には優秀なアシスタントでした」佐藤さんによると、久坂葉子の働きぶりはきちんとしていて、欠勤や遅刻もなく、立派に社会人として通用したとのことだった。久坂葉子は竹馬産業在職中にも自殺未遂をしているが、佐藤さんにはその記憶はなく、勤久坂葉子はとまらない早逝の女流作家飛び出した久坂葉子vol.752

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