KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2024年2月号
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は生きているのか、死んでいるのか、と心配になります。自分の見ているものが何なのかわからないということは、生きていることさえわからないと同じです。そこへ、知性の人がやってきて、理由のわからない抽象的な言葉を並べるのです。聞いている方だってわからないのに、「ああ、そういうことが描いてあるのですか」と納得したふりをして納得して、そこで初めて「絵が見えた」と思うのです。一体、この人は生きているのですか、と問いたくなります。僕は、横で思わず笑ってしまいます。そしてその人は自分の目を信じないで、人の言葉を聞いた耳を信じるのです。折角目が見えながら、耳で絵を見た、いや、聞いたのです。この人は、目が開いているにもかかわらず、見えない身障者です。言葉は間違いなく耳で聞きます。コンサート会場で隣の人に、「この音は何ですか」と聞くようなものです。やかましい音ですか、静かな音ですか、と聞くようなもので、誰が見ても少し頭のおかしい人に見えます。ということは、今、目の前にしている絵が見ているのに見えない。この人は頭のおかしい人なのです。自分の食べたリンゴの味がわからないので、誰かにその味を教えてもらって、「ああ、初めて味がわかりました」と言っているようなものです。絵がわからないというのは、リンゴの味が自分ではわからずに、人に食べてもらって「あっわかりました。おいしかったですね」と言っているようなものです。おかしいと思いませんか。あなた自身がその人なのです。他人事だといって笑わないでください。絵はわかる、わからないで判断するものではないのです。あっ赤色だ、あっ黄色だ、花だ、人が立ってる、ああ青い空だ、黒いカラスだ、これでいいのです。この人はしっかり絵を見ています。黒いカラスを見て、あっコンニャクだ、とは言っていないでしょ。これでいいのです。見たものにわざわざ理屈をつけて、とんでもないものに例えたりする必要はないのです。描いてあるものをありのままに見ることが絵を見る才能です。それにあれこれ訳のわからない観念的な言葉に置き換えて思想化して、知識人になったかのようにしている人は実は何も見ていない人なのです。絵が見える人はそんな見方はしません。絵は、知識や教養ではないのです。肉体感覚のひとつ目の感覚が感応する。それでいいのです。時間があり余って暇があれば、誰かの言葉を聞いたりするのもいいかもしれませんが、最初、パッと見た時は自分の感性に従って感応すればいいのです。わかるということは、頭脳の仕事です。絵は何度も言いますが、頭脳による理解度ではないのです。頭脳は肉体が受けて反応した感性のあとで、ゆっくりしてからでいいのです。今は美術に於ける観念(知性)と感性を対比して語りましたが、このことは美術の世界だけの話ではないのです。毎朝開いてみる新聞の記事や論評の中にも、随分、感性を無視した観念的な言葉があふれています。言い方を変えれば、知性と教養主導主義の言葉でびっしり詰まっています。言い方を変えれば、感性を無視したような内容のものが大半です。ひと言で1717

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