KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2024年2月号
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えてみたい。五感とは、目、耳、鼻、口、手(触感)の器官をいう。人間は五感で感じたものを、いちいち言葉に変換して理解しますか。口にした果物の味を体感するのは肉体であって、言葉や思想ではないでしょう。美術作品を感じとるのは、耳や鼻ではないでしょう。目によって見るのです。明るい絵か暗い絵か、美しい絵か、怖い絵か、それを認識するのは目です。にもかかわらず、見ているのかいないのかさえ、自信がないのです。だから誰かに「私は何をみているのですか」と、自信なく誰かに問うのです。赤色か青色かさえ、わからないのです。そして誰かに「私の見ているものは何ですか」と自信なげに、見えていると思う人に質問するのです。一体この人神戸で始まって 神戸で終る ㊹知性から霊性へじで、観念優先のコンセプチュアルアートに特にその傾向を強く感じる。観念と言語によって構成された芸術は、如何にも知的で今日的で、作家自らが自作を言葉で徹底的に説明する。従って鑑賞者は作品に感性で触れることを自ら否定して作家の言葉に従う。そして、その観念を理解する。非常に頭脳的で知的な交流が両者の間で成立する。このような傾向によって、現代美術は理解されようとしている。ところで、理解することが本当に美術の目的であろうか。美術は理解するものではなく、感応するものではないのか。感性は頭の機能ではなく、むしろ肉体的な体験である。例えば人間の五感について考『神戸っ子』編集部の田中奈都子さんから篠山紀信さんとの交遊と仕事のコラボについて何か書けないか、とオファーがあったのですが、篠山さんについては何本かの追悼文や取材を受けて、もう書くことがなくなったので、何か別のテーマをと、お願いしたところ、先月号で「近い将来、それほど遠くない時期に、この知性は崩壊するでしょう」と語った僕の話の続きを書いてもらえないかと要求されてしまった。えらいことになった。ふと口をついて出た言葉であって、その根拠はあるようでないのである。が、なんとなく現在の社会の方向性を見ていると、非常に理屈っぽくなっているように思う。それは、現代美術に於いても同Tadanori Yokoo美術家横尾 忠則撮影:山田 ミユキ1616

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