KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2024年1月号
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物心がつくかつかない僕には、運命の定めなど無関係です。ただそうしたかったから、そうすることに従っただけです。自分の意志というより超越的な何かによって、そうなるように定められているのが、どうも運命であるらしいのです。ごじゃごじゃ言わないで一発で結論を出すと、あれもこれも数奇な出来事と言ってしまえばいいんじゃないかな、と思うしかないのです。僕の最初の運命の出会いが絵だったこと、それが生涯を決定するだろうというようなことは何ひとつ予知できませんが、今、その最初の運命の出会いが、ひとりの人間の一生を決定づけていたということになります。ということは、知らず知らずのうちに幼い僕の魂が運命を受け入れるという選択をしてしまったということになります。宿命も運命もすべての人間に宿っています。宿命を変えることはできません。なるようにしかならない故に宿命なのです。しかし運命には自由意志が与えられています。運命を受け入れるのも、運命に逆らうのもその人間の思い通りの意志が決定します。ここで僕は自分にとっての運命との付き合い方について話してみようと思います。僕は生まれながらに運命に従わざるを得なかった境遇に生まれてしまったのです。僕の生の出発点が、すでに運命に従わざるを得ない境遇だったのです。だからというか、その後の様々な運命との出会いに対して、初心貫徹ではないが、僕に襲いかかってくる全ての運命は、全て受け入れましょう。そうすることが僕の運命パターンだからです。これが僕の基本的な生き方です。一般的には運命に従う生き方を恐れ、怖がる人は多いと思います。何が起こるかわからないからです。ところが僕はなぜか、何が起こるかわからないことに、非常に興味と関心と期待があるのです。予定調和の決まったことには、僕は全く関心が持てないのです。だからもし、自分が運命に逆らって、思い通りに目的と計画を立てて何かを行うとなると、こんなつまらないことはないのです。何が起こるかわからない未知に対してしか、生のエネルギーは機能しないのです。結論から言ってしまえば、僕の人生は無目的ということになるかもしれません。目的に従って生きる生き方など、何の魅力も価値もないのです。だけど大半が僕の生き方と反対の人が多いのです。たいていの人は、自らに襲ってきた運命に従って、自分の意志を通そうとします。その意志の働きは一種のエゴイズムです。宇宙の意志は決してエゴイズムに味方しません。そういう意味では、反宇宙的な人が如何に多いことでしょう。しかし、大衆の無意識は実は反宇宙的なのです。ここに、物を作る送り手と受け手の間に大きいズレがあるのです。そのズレをコントロールするのがクリエイトです。だけどクリエイトの核には遊びが必要です。ところが、この遊びを目的化する人間が実に多いのです。遊びには目1919

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