KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年12月号
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江戸川乱歩賞を受賞した「枯草の根」の原稿約500枚を投稿したのは、生田神社の春祭りの日だったという。《生田さんとは縁が深い。というよりは、神戸では生田さんが一種の暦になっているのだろう》と、彼は回想している。《『神戸っ子』創刊の年の十二月号に、私は十枚ほどの掌篇小説のようなものを書いたおぼえがある。そして、つづいて、「新春雑感」を書けと言われて、ずいぶん人使いの荒い雑誌だと思ったものである》創刊以来、舜臣と「神戸っ子」は盟友関係にあったようだ。神戸で三度の災禍から再起し、神戸からアジアの歴史を見据えてきた舜臣は、生涯170を超える著作をこの世に遺し、2015年、老衰のため90歳で天寿を全うした。=終わり。次回は作家、田辺聖子。(戸津井康之)をつきながら自宅へと戻った。だが、ほっとしたのも束の間。その4日後のこと…。17日午前5時46分、神戸市内の自宅のベッドの中で就寝中、大震災が襲った。《神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢みた神戸ではないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ》舜臣は神戸生まれの作家として、右手などにまひが残る中、神戸市民を励まそうと、また、己を鼓舞しようと、被災後、こんなメッセージを発している。「神戸っ子」との思い出実は、舜臣と「月刊神戸っ子」とは、深いつながりがある。「神戸 わがふるさと」の中にこんな記述が出てくる。タイトルは「『神戸っ子』と私の三十年」。《『神戸っ子』は創刊三十周年を迎えたという。これは私が江戸川乱歩賞をいただいて、プロの作家として学んできたのと、おなじ年齢というわけだ》舜臣の作家デビューは1961年。同年、「神戸っ子」も創刊された。《『神戸っ子』では、それが三月号にあたるそうだ。私のプロ入り三十周年は、それではいつになるのだろうか? 昭和三十六年十月に授賞式があったが、授賞の通知は、八月四日のことだった。忘れもしない生田神社の夏祭のときで、夕方、店から家に帰る途中、カバンの手提げの部分がはずれてしまった。―もうサラリーマン生活はやめてよいということかな?》そう舜臣が直感した通りとなった。カバンの手提げがはずれた後…。《…北野町の坂を登って行くと、妻が坂の上で手を振っていた。授賞のしらせがあったと、さすがにすくなからず興奮していた》131

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