KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年11月号
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久坂葉子が小説を書きはじめた経緯について、「久坂葉子の誕生と死亡」にはこう書かれている。「今からざっと三年半前、一九四九年の夏前に、久坂葉子は、この世に存在しはじめた。(略)私は女学校の時の友人につれられて、島尾敏雄氏の六甲の家を訪問した。それ以前から、私は小説を書いたり詩をノートのはしくれに鉛筆書きしたりしていて、ほんの少し、文学らしいものへの動きは、周囲の人達に感づかれていたのだ。(略)その友人が、私をあわれだとみたのか、島尾氏に、こんな女が居るんだと語ったらしく、それならVIKINGにおいで、ということで、私は、島尾敏雄氏なるものも、VIKINGなるものも、まったくご存知ないままに、三十枚ばかりの小説をもって、六甲へ行ったわけなのだ」島尾敏雄は言うまでもなく、後年、『死の棘』で読売文学賞や日本文学大賞などを受賞する大家で、当時は阪急六甲駅に近い神戸市灘区篠原北町に住んでいた。余談ながら、私は一九八五年に、当時、神戸市中央区中山手通にあった神戸掖済会病院の外科に勤務することなり、一九八八年まで灘区赤松町のマンションに住んでいた。赤松町は篠原北町と隣接しており、島尾敏雄の旧宅もそのまま残っていた。坂の町神戸らしく、門はカイヅカイブキの生け垣から石段を六段ほど上ったところにあって、家は二階建ての日本家屋だった。私は子どもを連れて散歩するたびにその前を通り、四十年近く前、ここに久坂葉子が訪ねてきたんだなと感慨を深くしたものだ。久坂葉子がはじめて島尾敏雄を訪ねたとき、持参した小説は「港街風景」という作品で、「久坂葉子の誕生と死亡」にはこうある。「その小説は、アカンとされたのだが、私が、はじめて、久坂葉子なる名前を附したもので、一週間位して、第久坂葉子はとまらない早逝の女流作家奇跡の秀作「入梅」vol.448

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