中国近代史の始まり―と位置づけ、三年かけて書き上げた原稿用紙三千枚の大作「阿片戦争」、三国志をテーマに挑んだ、吉川英治文学賞受賞作「諸葛孔明」、大和と明の間で苦闘の歴史を辿る琉球王国の興亡を描く「琉球の風」…。舜臣は常に俯瞰するような高い視座からアジアという広大な地域の歴史を書き著そうとしてきた。〝国際人〟の視点から文学と対峙し続けようとした彼の意志、その思いを文章に込めた情熱は、若き日に知った同郷人の「慟哭」から発していたのではないか。ネーミングに文句を言ったという「陳舜臣アジア文藝館」。開館の際、彼は「アジアの若者の交流の拠点に」と願いを込めた。「自分の本が次の世代へ役立てば…」。その魂がここに刻み込まれている。=続く。(戸津井康之)ど、時代がそれを許さなかった。ただ、その不幸が逆に、彼が若くして国際人として目覚め、広くアジアに目を向けるきっかけとなったことは間違いないだろう。神戸から台湾へ1941年、舜臣は神戸市立第一神港商業学校(後の神戸市立神港高校)を卒業後、大阪外国語大学(現在の大阪大学外国語学部)に進学。インド語とペルシア語を専攻していた。同大学の一学年下には、後に新聞記者から作家となる司馬遼太郎がいた。「神戸 わがふるさと」で、当時の彼の環境がこう明かされている。《私は大阪外語を繰上げ卒業し、母校の研究所の助手をしていた。講師、助教授を経て教授になるコースを、恩師は用意して下さったらしいが、国立の学校だから助教授以上は任官しなければならない。日本人でなくなった私は任官できない》彼は研究者として大阪外国語大学に残る道を断ち、日本を出ることを決意する。《私はこの機に故郷の台湾、そして、中国をみておこうと思ったのである》と。彼は弟とともに台湾へ向かった。そして3年間、台湾で過ごす中で、自由に台湾と中国とを行き来することができない同郷人の姿を目の当たりにする。1949年、台湾の女性と婚約した彼の友人はその直後に中国・上海へ行くが、台湾と中国との通信が杜絶したため、友人は婚約者との連絡が一切取れなくなってしまう。舜臣の弟が仲介に動き、ようやく二人は互いの消息を知る。友人は中国から、婚約者は台湾から来日し、面会はかなう。だが、離れ離れの長い年月の間に、二人はそれぞれ別の伴侶を選んでいた…。二人を引き裂いた絶望的な、この現実に舜臣はこう書き記している。《二十世紀は慟哭の世紀であったのだ》143
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