KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年10月号
98/147

また、冒頭の歌も、この頃に晶子が詠んだものだ。安喜子はメキメキと実力をつけ、1936年に歌集『芦屋より』を上梓している。これは安喜子の詠んだ3,000首から晶子が選抜したもので、その序文で晶子は「創作の名にふさはしい真実の歌を作つた」と記し、この作品を高く評価している。安喜子は戦後も浜芦屋界隈で温厚な夫と平穏な暮らしを送りながら、『明星』の編集委員を務めるなど、与謝野夫妻が遺した歌の心を守り続けた。与謝野鉄幹・晶子の薫陶を受けた二人のマダムは、途中で道を分かつとも、芦屋の海辺で言葉を美しく紡ぎ、日本の近代歌壇に確かな足跡を残したが、この地の明媚さが少なからず彼女たちに力を与えていることだろう。芦屋から世界へ羽ばたいた「GUTAI(具体)」 建築・絵画・文芸などマルチな才能を発揮し、文化生活のパイオニアでもあり、子弟教育にも貢献した西村伊作もまた、浜芦屋ゆかりの人物の一人に挙げられるだろう。彼が浜芦屋に住んでいたという説があるが、文献資料でその確証を得ることができなかった。しかし、前出の高安やす子と親交があり、やす子の娘の家を設計している。高安家はさまざまな文化人が集うサロン的な雰囲気があったそうで、伊作もまたその常連だったのだろう。伊作とやす子を引き合わせたのは、与謝野夫妻だったようだ。1921年、伊作は御影(後に住吉へ移転)に建築事務所を開業したが、それと並行して同年、東京に文化学院なる教育機関を創立したが、与謝野晶子はその学監、鉄幹は日本文学顧問として関わり教鞭も執っている。 俳人の高浜虚子も伊作と交流があり、文化学院の講師を務めた。虚子の孫、稲畑汀子は与謝野晶子と高安やす子。石本美佐保著『メモワール・近くて遠い八〇年』。『阪神間モダニズム』(淡交社刊)より引用谷崎潤一郎記念館(提供/谷崎潤一郎記念館)谷崎潤一郎98

元のページ  ../index.html#98

このブックを見る