医者の娘で、少し面長の美人でスマート、教養深く文学、音楽、絵画、建築工芸など幅広い趣味を嗜み、華麗かつ合理的なライフスタイルは当時の最先端で、「大阪社交界名流第一級」の讃辞をほしいままにしている。彼女が歩けば記者もその後に続き一挙手一投足に耳目を凝らした。多趣味だったやす子だが、日本初の夫人洋画会、朱葉会のメンバーとして活躍しただけでなく、短歌を生涯愛して歌人としても活動した。やす子は与謝野夫妻の門弟、かつ支援者でもあり、この与謝野夫妻の西遊の段取りにも力を尽くしていた。やす子が与謝野夫妻を招いて歌会を開催した。やす子は芦屋をはじめとする阪神間の名流夫人たちに声をかけ多くのマダムたちが集ったが、この席に浜芦屋の高安邸のすぐ近所、現在の松浜町に住まう一人の初々しい若妻の姿があった。その人の名は丹羽安喜子。三重県の津に生まれ、東京で学び、関西学院に勤める丹羽俊彦と結婚。俊彦は歌人でもあり、そんな夫の影響で文学や短歌に目覚めていく。与謝野夫妻を招いてのこの歌会がひとつのきっかけとなり、芦屋に女流短歌会、紫絃社が結成され、晶子や鉄幹から添削を受けつつ短歌の文化をこの地に花開かせた。アイドル的存在のやす子が主導していたこともあり、ひとたび歌会が開催されると新聞社の記者たちが押し寄せ、翌日の新聞には歌や写真が掲載されたという。それを目にした人たちは、芦屋への憧れを強くしたことだろう。ところが、この会の支柱であったやす子も1924年頃に与謝野夫妻のもとを離れ斎藤茂吉のアララギ派に転向、それを機に社交界から姿を消し、浜芦屋で三男三女の子育てと作歌に専心するようになっていった。1941年の歌集『樹下』では浜芦屋の明媚な風景を彼女の心象の背景に織り込み、茂吉もその作風を絶賛している。一方で、唯一残った安喜子は、その後も与謝野夫妻を師と慕い続けた。そんな安喜子に対し、晶子は「あなただけは変わらないのね、いつ迄も」と微笑みを向け、こんどは安喜子を訪ねて1931年、1933年、1936年、1940年とたびたび芦屋へやって来るようになった。1931年には鉄幹も芦屋を訪ね、芦屋の浜の松と砂の美しさに感動しこう詠んでいる。車より白服の人出で来ればいと濃くなりぬ沙(すな)の松かげ高安道成氏。石本美佐保著『メモワール・近くて遠い八〇年』。『阪神間モダニズム』(淡交社刊)より引用高安やす子。石本美佐保著『メモワール・近くて遠い八〇年』。『阪神間モダニズム』(淡交社刊)より引用97
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