KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年10月号
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しかも、怖がる馬淵をいつも蹴飛ばすようにしていたという。やがて馬淵は東宝の会長になり、次郎の長男、春正も東宝系列の会社の社長に就任するが、春正は馬淵に会うたびに「お前の親父はひどいヤツだった!」と言われていたとか。そんな次郎だが成績はそこそこ優秀で、その後、難関の神戸一中(現在の神戸高校)に合格。同級生には中国文学研究の大家、吉川幸次郎や初代文化庁長官で作家の今日出海らがいた。今は次郎を「育ちの良い野蛮人」と表現している。次郎は1年生の時は野球部に所属し、2年生からサッカー部に転部し、やがて抜群の身体能力を生かしてエースストライカーに、さらにキャプテンとして活躍する。自宅の庭の芝生に仲間を招いて練習したこともあったという。一方でケンカは日常茶飯事、10ほども年上のタカラジェンヌと交際したり、アメリカ車のペイジ・グレンブルックを乗り回したりとその派手な行動が目に余るようになり、父、文平に「高校など行かずに海外の学校へ行け!」と言いつけられ、1921年、浜芦屋に別れを告げて単身イギリスへと渡っていった。その身元を引き受けたのはハンター商会ロンドン支店長だったが、その創業者、E.H.ハンターの孫が、次郎のサッカー部の先輩で名ゴールキーパーだった範多龍平だ。次郎はこの渡英のことを後に「島流し」と笑って言ったそうだが、そんな鷹揚さや、その後大きな仕事を次々と成し遂げる器の大きさは、「やんちゃ次郎」をやさしく受け止めた浜芦屋の大らかで開放的な風土にも育まれたのではないだろうか。華麗なる歌人夫妻と二人のマダム門弟 ふるさとの和泉に暗き雲沸きて芦屋に見るは紀の国の山第一部で述べたように、近代化が進む中で環境が悪化していた大阪から「健康地」を求めて阪神間に富裕層が流れた。それは乗客を増やそうという電鉄会社の戦略という側面もあり、その宣伝も盛んにおこなわれた。大正時代に阪神電鉄が発行した『市外居住のすすめ』という冊子には、14名の医師が「健康地」での生活をしきりに勧めている。そのうち3名の医師が実際に芦屋川沿いに別荘を構え、その1人、大阪で代々続く医家の8代目で、イギリスやポーランドで研鑽を積み、道修町に大阪初の近代的外科病院である高安病院を開業した高安道成は、浜芦屋の地を選んだ。明治末期に建てられた楠に囲まれた広大な別宅の主役は、道成の妻、やす子だ。もともと阪神電鉄が発行した『郊外生活』。大正3年創刊。『阪神間モダニズム』(淡交社刊)より引用96

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