KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年10月号
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だようだ。元京都御所の宮大工だった腕利きの職人を常駐させ、いずれの建築も見事なものであるばかりか、設備も当時最新のものを導入、明治や大正の頃にどの蛇口からも温水が出たそうだから驚きだ。そして広さも半端ない。中でも1922年に移り住んだ伊丹の屋敷は渋沢栄一邸の2倍近い1.83万坪(それより大きかったという説もあり)もあったそうで、義理の娘、白洲正子も著書の中で「敷地には、美術館あり、牡丹畑あり」と記している。浜芦屋の邸宅はそれよりずっとコンパクトだが、それでも2,500坪ほどもあって、昭和初期の地図を確認しても近隣の邸宅の3~4倍はある。文平がこの土地を手に入れたのは1906年、文平の次男、次郎が4歳の時だ。次郎を芦屋出身と紹介している資料もあるが、このことから生誕地は神戸と考えられ、幼い頃には花隈の料理屋の女将にかわいがられていたそうだ。その人物は、日本屈指の料亭、吉兆の湯木貞一の母だったと伝わる。幼い次郎は神戸から浜芦屋の豪邸へ越してきて、精道小学校へ通った。しかし、かなりの腕白小僧だったそうで、母のよしはいつでも謝りに行けるように菓子折を常備していたという。精道小学校を卒業した後は、御影附属小学校高等科へ進学する。後に江崎玲於奈と野依良治という2人のノーベル賞受賞者を輩出した名門校であるが、ここでも次郎は悪童ぶりを発揮。学校が終わると御影駅から阪神電車に乗り芦屋まで帰るのだが、決まって弟分の馬淵威雄と一緒で、芦屋駅に着く直前、まだ電車のスピードが落ちきらぬうちに飛び降りる。大正時代に運行していた阪神電車95

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