KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年10月号
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従順ならざる日本人とその豪傑親父 芦屋市役所東側の道を南へ、国道43号を越えて最初の十字路を左折して50mほど行ったところの右手一帯に、かつて大きなお屋敷があった。ここの主は白洲文平。あの有名な白洲次郎の父で、神戸・栄町に綿花仲買業の白洲商店を創業し、アメリカの綿花産地の天候を打電させ、これを判断材料に相場を予測して商機を掴み、多額の利益を上げて超のつくお金持ちになった傑物だ。その並外れた才能の根源は、文平の生い立ちにあるのだろう。父、白洲退蔵は大阪で儒学を修めて三田藩の藩校で教鞭を執っていたが、藩主の九鬼隆義にその才能が目に留まり藩政改革係に抜てきされ、実績を上げて家老格に登り詰めた。維新後も隆義とともに神戸へ出て貿易会社、志摩三商会を設立し、その発展に尽くした。退蔵は福沢諭吉が一目置いた人物で、神戸女学院の設立にも土地を譲るなど大きく貢献、三田牛の育成にも尽力するなど、開港間もない神戸とその周辺にも多大な足跡を残している。文平は退蔵の長男にあたり、学生時代は次男・順平と三男・長平とともに野球で鳴らして、日本ではじめてキャッチャーミットを使った選手だったという説もある。その後、アメリカとドイツへ留学するが、ボン大学では五千円札の新渡戸稲造や、後に息子・次郎の妻となる正子の父、樺山愛輔とともに学んだ。帰国後、銀行や紡績会社に入社するも、いずれもすぐに退職。欧米生活を経験した身には、日本的な勤め人が性に合わなかったのか、それで前述の通り自ら起業したようだ。明治末期に日本で16台しかなかった自動車のうち2台を所有していたとか、阪神電車に乗るときは一両まるまる借り切ったとか、「白洲将軍」こと文平にまつわる逸話は事欠かない。そんな文平の道楽の一つが、家の普請だった。浜芦屋のほか青木、西宮、伊丹と次々と「白洲屋敷」を造って楽しん第二部 浜芦屋ゆかりの人たち明治末期から大正時代にかけて浜芦屋やその周辺は邸宅街、芦屋のさきがけとしてお屋敷が建ち並ぶようになり、多くの富豪や芸術家が住まうようになった。芦屋川の下流では右岸(西側)には財界人、集落に近かった左岸(東側)には文化人や知識人が多かったという傾向がある。浜芦屋エリアは華やかなイメージの人物が多い。浜芦屋とその近隣に文化的・芸術的な気風を授けてくれた、素敵な人たちを紹介しよう。94

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