KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年10月号
92/147

して終焉を迎える。そして、その甘く瑞々しい果実を、やがて戦後の日本の生活や文化が享受していくことになる。ぶれずに、厳格に守られ続ける住環境太平洋戦争が終結し、その傷は芦屋を苦しめる。あちこちに復興事業が必要な状況となり、市の財政が慢性的な赤字となってしまったのだ。しかし、芦屋はこのピンチに及んでも、恵まれた環境を守り抜く独自の方針を貫く。お隣の西宮や東灘が臨海地帯を工業用地として開発し、阪神工業地帯を牽引していくのに対し、芦屋市は1949年に観光計画を打ち出す。その構想図によると、芦屋川左岸の河口に水族館と潮湯、運動場やプールにクラブハウスまで併設し、芦屋浜の海水浴場と一帯となるシーリゾートの青写真を描いたことが読み取れる。これが実現していたら、浜芦屋はシーリゾートの一角となっていただろう。だがこの構想は実現することなく、かわって文化住宅都市への路線へと切り替わる。その方向性は1951年、「芦屋国際文化住宅都市建設法」の公布で明確になった。〝条例〟レベルではなく、国権の最高機関である国会によって制定された〝法律〟がまちづくりの指針となるのは全国でも稀だ。実際にこのような特別都市建設法は15しかなく、その多くが観光地で、「住宅都市」というのは芦屋市のみ。もはや住宅地としての芦屋の環境の素晴らしさは芦屋市民だけのものではなく、日本国民の宝であると国が定めたようなものだ。しかもこの法律は、住民投票を経て制定されている。芦浜芦屋にあった別荘。撮影/高安正夫。『阪神間モダニズム』(淡交社刊)より引用92

元のページ  ../index.html#92

このブックを見る