と移行していった。一方、日清・日露戦争と産業革命により日本は重工業が急激に発展していったが、中でも大阪は〝東洋のマンチェスター〟とよばれる日本一の工業都市になっていった。その繁栄の裏側では、生活環境の悪化が深刻になっていった。特に大気汚染と水質の悪化は人々の健康を蝕み、さらに騒音や悪臭なども日々の生活にダメージを与えた。阪神間の環境は大阪とは対照的。医師が記した当時の冊子の一文をもって説明すると、「北は山を負ひて寒風を防ぎ、南は海に面して涼風来たり、冬は暖かにして夏涼しく、大気清浄オゾンに富み、海水清澄、漁獲多く、山水明媚、風光に富み、四時風の方向宜しき上に、交通至便」、さらに清らかで美味な六甲山の伏流水にも恵まれ、灘の酒造家たちの文化度の高さや資本の蓄積から育まれた教育環境も先進的で、しかも大阪からみれば風水で金運や事業運に恵まれるとされる西・北の方角に位置する。そんな理想郷はないと、船場を中心とする大阪の商家たちは家族、特に子どもたちの健康のためにこぞって阪神間へ移動していった。そして電鉄会社もそれを後押し。自社での宅地開発や開発業者のサポートに力を入れ、平日のラッシュの動きの逆方向に乗客を集めるべく通学需要の喚起のために阪神間に教育機関を誘致したり、休日が閑散とならぬようさまざまなレジャー施設の創設や育成に尽力したり、これら沿線の魅力を伝える広報広告にも精を出した。中でも良好な環境と生活や交通の利便性を兼備した芦屋川沿いは人気で、ここに住まいを求める人が増え、都市部から人口が流れ込み、浜芦屋も田畑が宅地へ変わっていった。このように芦屋川河口付近の宅地化は大正時代にものすごいスピードで進んで、昭和初期にはすでに飽和状態を迎え、ここから川を遡るように山手へと郊外住宅地が開発されていくようになる。お屋敷街、芦屋のルーツが浜芦屋やその近隣にあるといわれる所以だ。そして阪神間は、大阪船場の粋な文化と、神戸のハイカラ文化が恵まれた環境で融合、さらに今からちょうど百年前の関東大震災から逃れてきた文人墨客のエスプリもスパイスにして、阪神間モダニズムとよばれる独自の生活文化を開花させた。芦屋はその核のひとつとなり、日本初のファッション誌がここで発行され、名建築がさながら野外博物館のように建ち並び、著名芸術家の梁山泊としても知られ、華やかな生活文化煌めく憧憬の地となった。精道村は一足飛びに市制施行と相成って、1940年に芦屋市が誕生した。しかし、その頃から戦争の影が忍び寄り、麗しきモダニズムは、桃の花の如く短い春を謳歌芦屋浜で海水浴を楽しむ人々。大正末頃91
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