KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年10月号
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一方、史料に樋ノ口新田の名はないが、樋口屋新田という名がいくつか記載されている。これは1678年頃に尼崎の商人、樋口屋九平が資本を投じて切り拓いた新田だが、その事業は領内の経済発展を目指す尼崎藩の奨励によるものと考えられる。西宮市樋ノ口町のルーツの樋口屋新田も同時期に同じ樋口屋が開発したものだが、樋口屋が経営から撤収した後に樋ノ口新田と改称されているので、浜芦屋も同様に樋口屋新田が後に樋ノ口新田になったとみていいだろう。その新田に置かれた芦屋村の枝郷、浜芦屋新田村が浜芦屋の起源だ。尼崎藩の本領だった浜芦屋新田村は1694年に藩主、青山幸よしまさ督の弟の幸ゆきずみ澄に内分分知されているので、それまでには成立していたことは間違いない。また、1804年には伊勢詣りの資金確保のために浜芦屋の村民で結成された講所有の田畑、伊勢講田に関する書状が認められていることから、その頃にはそれなりに発展していたと考えられる。その伊勢講田は、現在の伊勢町の地名の起源になっている。豊饒な海が目の前にあり、また、近隣は水車動力があるため油絞りが盛んだった。ゆえに干鰯や油かすの入手は比較的容易で、これらを肥料に用いて土壌改良に努力を重ねていたようだ。また、温暖な気候を生かして稲と麦の二毛作もおこなわれていたことも史料から推測できる。このような努力と技術で芦屋一帯はいつしか豊かな農産地となり、時の長崎奉行、石谷淡路守清昌が江戸~長崎を往来した際にその発展ぶりに目をつけ将軍に進言、1769年に尼崎藩領から天領へと移行している。恵まれ過ぎる条件で芦屋邸宅街の礎に幕末に外国船来襲の脅威で海岸が少し色めいた以外は、基本的にはおだやかな農村だった浜芦屋も近代を迎えるが、しばらくは江戸時代の延長で、田畑が広がるだけの地であった。大きく変貌するのは、明治の後半になってからだ。『摂津名所図会』に描かれた芦屋川。寛政8年(1796)発行。芦屋市教育委員会発行の『芦屋川の歴史』より阪神電車が出入橋〜三宮間に開通し、芦屋駅が開設された。明治38年(1905)89

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