久坂葉子、本名川崎澄子は、川崎重工の創始者・川崎正蔵の曾孫として、一九三一年に神戸で生まれた。いかにも上流階級らしい生い立ちを、自伝的な小説「灰色の記憶」に詳しく書いている。和歌山の別荘で育った幼少期、名門の子女として特別な存在だった小学校時代、そして自我に目覚める女学校時代まで、久坂葉子は実に個性的かつ自由奔放に育っていく。その中で「灰色の記憶」には彼女の資質を象徴するようなふたつの事件が描かれる。ひとつは「マネキン事件」。小学校に上がる前、母の買い物について百貨店に行った久坂葉子は、展示してあるマネキンに異様に惹かれる。その場を離れようとしない彼女に、母が「東京の御土産にパパに買って来て頂きましょう」と言い、出張で東京に行く父も了承したが、買ってきてくれたのはふつうのママー人形だった。久坂葉子は激怒し、その人形を柱にぶつけて頭を砕いてしまう。「パパは嘘をおっしゃったの、ママも嘘をおっしゃったの、ボビ(久坂葉子の呼び名)はわかったの、わかったの」と言い、その日から大人を信用しなくなる。激しい怒りの反動として、嘘を言ってもいいのだと思うようになり、小学校に上がるとカンニングや万引きも許されると考え、戦利品を級友に与えたりして、英雄気取りになった。裸のマネキンと添い寝をしたいという願望が消えず、押し入れで配下の女の子を裸にしたり、混血の級友にすり寄ったりした。その一方で、家族や女中に突拍子もない作り話(自分はもらい子で、遠い国で生まれて兎や鹿に育てられたとか、近所の子どもに蛇を首に巻きつけられた等)をしたり、劇ごっこと称して友だちと即興の劇を作って遊んだりした。この奇妙な執着や反倫理性、逞しい想像力は、早くも作家の片鱗を感じさせる。ふたつめは、女学校で「自己久坂葉子はとまらない早逝の女流作家「灰色の記憶」とふたつの事件vol.350
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