KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年10月号
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震災からの復帰1995年1月17日。阪神・淡路大震災が発生。「神戸で暮らし始めて11年が経っていました。家族は全員無事で、自宅もヒビが入ったぐらいの損壊で済んだのですが…」そう説明すると、声が沈んだ。「自宅同士、わずか3キロしか離れていない仲の良かった知人宅で、お子さん二人が亡くなっていたのです…」その衝撃は大きかった。「悲しみは決して対岸の火事ではない」と、すぐに行動を起こした。ボランティア団体「がんばろう!神戸」を立ち上げ、先頭に立って被災者に救援物資を運ぶなど支援活動を始めた。活動を継続する中、2002年にはNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」を設立する。「震災の被災者だけでなく、事件や事故などの被害たが、この期待を堀内さんはあっさりと拒む。「その作品に必要とされるバイプレーヤーの道」を選んだのだ。それでも本人の意に反し、出演依頼は殺到した。一度、演技を見た監督やプロデューサーたちから次々と声がかかる。その一人が師であり盟友、実相寺昭雄監督。特撮の巨匠からウルトラシリーズのキャストに抜擢されるなど実相寺組の常連となる。2006年11月、俳優仲間の寺田農さんから実相寺監督の危篤の知らせを受け、堀内さんは神戸から東京の入院先へと急いだ。「監督の奥さん(女優の原知佐子さん)は舞台の公演中。知佐子さんを待ちながら病室で監督の最期を看取らさせてもらいました」たとえ東京を離れていても映画やドラマの監督や俳優仲間たちとの絆を堀内さんはずっと紡いできたのだ。者の遺族も支援したい。苦しみは皆、同じだから」と支援活動の幅を広げ、そこで理事を13年間務めた。神戸市役所庁舎に隣接する公園「東遊園地」に、「1・17希望の灯り」のモニュメントが建てられている。《震災が奪ったもの命 仕事 団欒 街並み 思い出たった1秒先が予見できない人間の限界…震災が残してくれたものやさしさ 思いやり 絆 仲間この灯りは奪われたすべてのいのちと生き残ったわたしたちの思いをむすびつなぐ 》刻まれた碑文は堀内さんが考えたものだ。「避難所で出会った人たちから聞いた言葉。そこからできたのが、この碑文なんです」支援活動を続ける中で〝ある転機〟が訪れる。被災者やボランティアの仲間からかけられた言葉が、そのきっかけとなった。27

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