であった。彼は孤独を愛した。山においても、彼の仕事においても、彼は独力で道を切り開いていった》こう書いた作家、新田自身、屈強な登山家として知られる。新田を知るために彼の次男、数学者でエッセイストの藤原正彦氏の自宅を訪れ取材したことがある。新田が「孤高の人」を始め、どうやって山岳小説の名作の数々を執筆していたかを知りたかったからだ。藤原氏は、息子の目でとらえた父、新田の執筆の日々、その姿を教えてくれた。それは「孤高の人」で老人が若者に語った文太郎のような壮絶な生きざまと重なった。藤原氏はこう語り始めた。「父は山岳小説を書く前、主人公が登った山を実際に自分の足で登っていた…」と。新田の目を通じ、文太郎の登山家としての人生を浮き彫りにしてみたい、と思った。=後編へ続く。(戸津井康之)若者が一人の老人と出会う場面。老人は若者に「加藤文太郎」の話を切り出すが、若者はその名を知らない。《「加藤文太郎というと?」若者はやや首をかしげて聞いた。「不世出の登山家だ。日本の登山家を山にたとえたとすれば富士山に相当するのが加藤文太郎だと思えばいい」》この言葉に衝撃を受けた若者は文太郎について、もっと教えてほしいと頼むと老人はこう続ける。《…加藤は生まれながらの登山家であった。彼は日本海に面した美方郡浜坂町に生れ、十五歳のときこの神戸に来て、昭和十一年の正月、三十一歳で死ぬまで、この神戸にいた》そして、老人は、文太郎が挑んだ「六甲全山縦走」の全容について語り始める。《彼はすばらしく足の速い男だった。彼は二十歳のとき、六時に和田岬の寮を出て塩屋から山に入り、横尾山、高取山、菊水山、再度山、摩耶山、六甲山、石の宝殿、大平山、岩原山、岩倉山、宝塚とおよそ五十キロメートルの縦走路を踏破し、その夜の十一時に和田岬まで歩いて帰った。全行程およそ百キロメートルを十七時間かけて歩き通したのだ》コロナ禍、中止されていたが、昨年11月、3年ぶりに「2022 KOBE六甲全山縦走大会」が開催され、15歳から79歳まで、全国各地から1537人が参加した。文太郎が1925年に初めて敢行したこの縦走登山は、その半世紀後の1975年、(片道のコースで)第1回大会として甦り、昨年48回目を迎える神戸の伝統行事として定着した。今年も11月、第49回大会が開かれる予定だ。小説「孤高の人」に戻ってみよう。文太郎の「足の速さ」に驚いた若者に、老人はこう付け加えて説明する。《…だが人間的にも、彼は他の追従を許さぬほど立派な男131
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