KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年9月号
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〝単独行の文太郎〟約半世紀にわたりほぼ毎年、神戸市主催で行われてきた市民参加の人気の登山イベントがある。大会名を「KOBE六甲全山縦走大会」という。同市須磨区の須磨浦公園から宝塚市の宝塚駅まで全約56キロのトレイルコースをひたすら歩く、歴史ある伝統行事だ。標高約700メートルの摩耶山や標高約930メートルの最高峰など十数峰の山越えが待ち受ける過酷なこの〝縦走路の生みの親〟が、兵庫県浜坂町(現在の新温泉町)出身の登山家、加藤文太郎(1905~1936年)だ。文太郎は1905年、浜坂町で生まれ、地元の尋常高等小学校を卒業後、三菱内燃機神戸製作所に就職。神戸で働き始めた彼は23年頃から登山を始めるが、この登山のトレーニングのために彼が選んだルートにちなみ、企画され始まったのが、この縦走大会なのだ。彼は〝稀有な登山家〟として、その名を知られるようになったが、それはなぜか?登頂に何日も費やす難所の登山では通常、パーティーと呼ばれるチームを組んで山頂へのアタックをかけるのが一般的な登り方だが、文太郎は違った。当時、多くの登山関係者から「無謀だ」と批判されたが、彼は日本を代表する山岳家がパーティーを組んで挑んでも困難な日本アルプスなどの険しい山々の山頂を、単独で次々と踏破していったのだ。そこで付けられた呼び名は〝単独行の文太郎〟。この一匹狼のような文太郎の生きざまをモデルに、作家、新田次郎は半世紀前の1969年、一冊の山岳小説を世に発表した。現在も、山に挑む子供から大人まで幅広い層から熱烈に支持される、このロングセラー小説が「孤高の人」(新潮文庫=1973年)だ。六甲での修行小説「孤高の人」の中にこんな描写がある。「六甲全山縦走大会」のコースの途中にある山の一つ、標高約320メートルの高取山の頂上へ辿り着いた神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊶前編加藤文太郎六甲で鍛えた孤高の登山家…山岳魂は縦走大会へと引き継がれ130

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