島は「そのエッセイ的小説、小説的エッセイは、昭和文学のもっとも微妙な花の一つである」とも綴っている。 「タルホ神戸年代記」のタイトル「神戸三重奏」の中で、足穂が神戸の摩耶山について書いたこんな一文がある。《摩耶山上の天上寺へ、私は一度、何の変哲もない急な山道を伝って登って行ったことがある(中略)。ではそこからの展望は……これは勿論すばらしい、眼下の海は、ビリヤードの緑色のラシャのように、その所々に大小の船々をばら撒いて、平べったく一面に、一つのしわも見せないで打ち拡がっていた》文豪たち曰く、「三日月に腰かけながら、独特の小宇宙を形成し、微妙な花のようなエッセイ的小説…」を書き続けた足穂。その唯一無二の俯瞰した視座は、彼が少年時代に神戸で見た、こんな原風景のなかで育まれたに違いない。=終わり。次回は登山家、加藤文太郎。(戸津井康之)語」(金星堂)で作家としてデビューを果たした。 他の出版社に没にされた原稿を、重鎮作家の佐藤春夫に送ったところ、その文才を認められ、佐藤の門下生となるのだ。佐藤の弟の家に居候しながら執筆し完成させた「一千一秒物語」は、一作目にして足穂の代表作となる。読者のイマジネーションをかき立てる、この題名も佐藤のアイデアから生まれたという。佐藤は足穂にとって大恩人のはず。だが、「文藝春秋」を創設したジャーナリスト、菊池寛の作品を、佐藤が褒めたことに立腹し、足穂は佐藤のもとを去る。彼の〝モノ言う気質〟はここでも抑えることができなかったようだ。そして、足穂は東京から明石へと戻り、文壇からも距離を置くようになる。関学普通部(旧制中学)の同期生だった今東光も「文藝春秋」を追われ、文壇と袂を分かつことになったが、足穂といい、神戸ゆかりの作家は、なぜか、菊池寛とは相性が悪かったようだ。ただ、そんな喧嘩っ早い足穂や東光ではあるが、彼らほど多くの文豪たちに愛され、また高く評価された作家はいないかもしれない。東光の親友だった芥川龍之介は、足穂を「大きな三日月に腰掛けているイナガキ君(中略)…君の長椅子には高くて行かれあしない」と評し、星新一はSF作家らしく、足穂の文学を、「ひとつの独特の小宇宙が形成され…」と称えた。これら文豪たちの高い評価は、足穂が世間からなかなか認められ難かった作家だったからかもしれない。「稲垣足穂氏の仕事に、世間はもっと敬意を払わなくてはいけない」。こう評したのは三島由紀夫である。「小説家の休暇」(新潮文庫)の中で三131
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