は〝電車〟で、誕生は〝乗車〟死は〝下車〟にたとえられる。〝電車〟を降りると、人間は光の塊になり、守護霊と背後霊によって暗闇から灰色の世界へと導かれる。人間だけでなく、木や虫や石も〝光〟になっている。石の〝光〟と、木の〝光〟が、それぞれに言う。「もともと木や石や人間はそんなにへだたりがあるわけではないのです」「原子の組み合わせをいじれば同じようなものもできますからネ」木も石も人間も似たようなものとは、何という遠大な認識だろう。人命がどうのこうのという発想などとは、次元のちがう深みがある。さらに守護霊はこうも言う。「死は永遠の〝無〟ではなく、一時的な〝下車〟にすぎないのです」「生」の〝電車〟は山手線みたいにグルグル回っているから、乗ろうと思えばいつでも乗れるが、人間は一本線だと思っているから、胸が痛くなるほど心配したり、うろたえたりするのだという。灰色の世界に着くと、死んだ両親ばかりか、小学校時代の恋人「花ちゃん」とも再会する。食わなくていいからアクセクする必要もないし、身を守る必要もない。肉体がないのでセックスでもめることもないと「花ちゃん」に言われ、男は「あっ、それはまたちょっとサビシイ」ともらす。それでも死後に「そんな至福の世界が準備されていた」と知り、男は「神様も意地が悪い」と顔をしかめる。すると守護霊が、「いえ、隠しておかないと自殺者がふえますからネエ、イヒヒヒ」と笑う。これはある種、水木サンが考える〝最良のシナリオ〟だろう。本作の初出は1992年で、水木サンも70歳になり、徐々に死に近づきつつあることを意識してのことかもしれない。水木サンの死に対するシビアな認識は、短編「不死の酒」にも描かれている。ある寺で密かに作られた「不死の酒」を飲んだ泥棒が、死罪になるのを恐れ、自殺しようと首を吊っても死ねず、磔になって竹槍で突かれても死なず、首と手足を切断されても死なず、首も胴も手足もそれぞれにのたうち回り、酒を造った和尚の手で埋められてもまだ死ねず、地中から「いたいよー、いたいよー、苦しいよー」という悲鳴が続くというストーリーだ。そして和尚の一言。「結局、人間は死があったほうがよい」生きていれば何かいいことがあるなどというのは、根拠のない思い込みで、高齢になればむしろ苦痛と不如意が増えるばかりだ。高齢者医療の現場にいた私は、和尚=水木サンの一言は、正解と言うほかはない。「冴えてる一言」~水木しげるマンガの深淵をのぞくと「生きること」がラクになる~定価:1,980円(税込み)光文社 久坂部 羊さんの新刊41
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