上に泊まって蛾の採集をして、「自分が住んでいる北区の方がたくさんいるなあ」と思った記憶があります。小さいころは家族でケーブルカーに乗ったり、小学校の遠足で再度山や森林植物園、外国人墓地へ行ったり、少年登山会に参加したり、たくさんの思い出があります。―親しまれている六甲山は昔〝はげ山〟だったとか。神戸市の取り組みで緑を取り戻した経緯をお聞かせください。久元「六甲山に植林を」と初代・鳴瀧幸恭市長(1889〜1901年)が提唱し、2代・坪野平太郎市長(1901〜1905年)が取り組みを推進しました。明治神宮造営で名高い東大の本多静六博士の「多種類の木を植え植生を豊かにして山を災害から守る」という考え方を模範にしました。しかし1938年7月、阪神大水害で神戸市は甚大な被害を受けます。市の発展に伴い進められた開発工事現場で被害が生じていると本多博士は講演会で語っています。直後、内務省土木局(現・国土交通省)直轄の六甲砂防事務所を開設いただいたことは非常にありがたく、堰堤と砂防ダム建設が続けられ災害を防いできました。山の中で行われてきたことですから市民にはあまり知られていませんが、国、兵庫県、神戸市が連携した取り組みが効果を発揮しています。盛山 当時の神戸は諸外国との日本の玄関口で神戸港から人や物が出入りしていまし衆議院議員盛山 正仁さん1953年生まれ。灘高等学校、東京大学法学部卒業、神戸大学法学研究科修了、博士(法学)、博士(商学)。運輸省に入省し、OECD運輸・観光課、環境省自然環境局総務課長、国土交通省情報管理部長を経て、現在、衆議院議員(5期目)。植林が始まった頃の六甲山(提供/神戸市)82
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