KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年6月号
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光は幅広い人脈を生かし、関西財界人に協力を呼びかけ、大会を成功に導く。当時の日本ペンクラブ会長だった川端を親友の東光が支えたのだ。「毒舌 身の上相談」で東光は、19歳の若者からこんな質問を受けている。「和尚の八十年足らずの人生において、最大の悟りとは?」《当年七十八歳でございますけれども、まだ悟ってはおりません。そう簡単に悟れるものじゃありませんです。ハイ》誰にも真似できない波乱万丈の人生を東光は駆け抜けた。そこから見つけた答えは乱暴だが、「死ぬまで考えるのが人生だ。簡単に悟るな」という愛ある激励ではなかったか。東光は、こう答えた翌年、1977年に79歳で亡くなった。=終わり。次回は稲垣足穂。(戸津井康之)が、川端自身、大学へ行っても授業なんか全然出てない怠け者で、卒業論文も間に合わないくらいひどいもんだった》東大の講義を必死で聞いていた〝盗講生〟の東光と、講義に出ない東大生の川端。まったく違う学び方をしながらも、二人は後に日本を代表する作家になっていく。《これが文学の道だなんていうものは存在しないよ》それこそが東光が辿り着いた答えだった。ところで、大学時代は逆転したようだが、一高まで優等生だった川端がなぜ、〝不良の代表〟のような東光と親友になったのか?川端は1歳のときに父、2歳で母を病死で失っている。そして6歳で祖母を、11歳で4歳年上の姉を、15歳で祖父を亡くし天外孤独の身となる。一高の寮生時代、夏休みなどで帰省する故郷を失った川端は東光の実家へ行き、家族のように過ごしていた。東光の両親を川端は実の息子のように慕ったという。東大生でなかった東光が、「新思潮」の同人になれたのは川端の強い推薦があったからだ。東光を同人に入れることを反対した菊池寛に対し、「それなら自分も同人にはならない」と川端は訴えたという。友人の死を乗り越えて東光の流転の人生はまだ終わらない。1927年、仲の良かった芥川が自殺。この辛い経験などを機に、東光は1930年に出家。修行を積み、1955年に比叡山に上山し、高僧の阿闍梨となる。一方で東光は出家した後も文章を書き続けていた。1956年、「お吟さま」で直木賞を受賞。人気作家として文壇に返り咲くのだ。1957年、京都で開かれた国際ペン大会京都大会で東131

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