文豪たちとの邂逅辛い青春時代を過ごした神戸在住時代。旧制中学を2校も退学処分となった今東光だったが、持ち前のバイタリティーで次々と危機を跳ね返していく。東大の授業を「盗講」で独学し、文壇にも属することなく、徒手空拳で作家としての道を切り拓いていく。東光は神戸から上京後、旧制一高の寮に招き入れられ、後にノーベル文学賞を受賞する川端康成と交流を重ね、芥川龍之介らと共に東大の講義を受けていた。1921年、川端の推薦で東大系の同人誌「新思潮」の同人として参加。1923年にはジャーナリストの菊池寛らと「文藝春秋」創刊にも携わる。本格的に作家としての活動を始めた東光だったが、東大を卒業していないことを理由に「文藝春秋」の執筆陣からはずされ、立腹。文壇と対立し、袂を分かつ。作家として軌道に乗りかけたところで、またしても彼は行く手をふさがれ、追い詰められていく。だが、このピンチも乗り越える。当時の人気俳優、阪東妻三郎と仲良くなり、小説「異人娘と武士」を原作に、1925年、「阪東妻三郎プロダクション」製作で映画化されることに。そして阪東プロの顧問となり、京都へ居を移す。以来、彼の小説は次々と映画化され、東光はしだいに人気作家の道を駆け上っていく。東光の自著「毒舌 身の上相談」(集英社文庫)で彼はこんな相談を受けている。「作家になるためにはどんな勉強が必要ですか?」と。この質問に彼はこう答えている。《趣味だろうと本職だろうと、何でも文学の道につながっているんだ、やる気さえあればね。だから作家になるための特別の勉強なんてありゃあしねえよ》さらに、こう続ける。《でも、みんな文学をやるっていうと、川端康成のように、一高出て東大へ入って、そうしてスッとやれると思っている奴が多い。それが文学をやったということだと思ってるらしい神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊳後編今東光やる気さえあれば道は開ける…最期まで人生を悟ることなかれ130
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