今村 欣史書 ・ 六車明峰連載エッセイ/喫茶店の書斎から 山下栄市という人ひさしぶりに目にした名前。「山下栄市」さん。初めて知ったのは1985年だから38年もの昔だ。『六甲』という短歌誌がある。昭和8年創刊の兵庫県では最も伝統ある歌誌といっていいだろう。そこにわたしは2016年より随想を連載させてもらっている。このほど4月号(通巻1036号だ!)を読んでいて目に留まったのが、この「山下栄市」という名前。あるページに山本武雄(六甲元代表)の歌集『朴の花』(六甲短歌会・1979年刊)からの五首が余ったページを埋めるように載っていた。そして、《題字富田砕花 装画山下栄市 素描竹中郁》とあった。富田砕花も竹中郁も有名人だ。山本武雄も兵庫県では名前の知れた歌人だった。この際、山本さんについて触れておこう。但し、わたしはお会いしたことはない。宮崎修二朗翁から何度も人格者だったとお聞きしていた。翁の著書『ひょうご歌ごよみ』(兵庫県書店協同組合・1984年刊)には次のように紹介されている。《『六甲』を三十年にわたり多忙な家業の中で独力編集しつづけた。個人雑誌かと見まがう主宰者専横独善の歌俳誌もある中に、編集者の一首の自作も載らない月があった。投稿者作品の優先主義が、己の発表の場をついにはなくすのだ。(略)その自己規制には恐らく氏の敬慕する富田砕花の“詩士”的な生きのさまへの志が貫いていたのだろう。》 先に、富田砕花、竹中郁は有名人だと書いた。そして山本武雄も前記の通りの人。ところが、山下栄市さんはそうではなかった、と思う。だがわたしは、どこかでその名を見たことがあると思った。そして思い出したのが『宮っ子』という西宮市が発行している情報誌である。『神戸っ子』と似た名前だが、『宮っ子』の方が歴史は浅い。といっても1979年創刊だからけっこう伝統はある。その『宮っ子』の59号、1985年4月号に、後にわたしが薫染を受けることになる宮崎修二朗翁(「翁」と書いたが、当時はまだ60歳代とお若い)が、初心者のわたしの詩を「文学の小道」という見開きのページに大きく取り上げて下さったことがある。自分の名前があんなに大きな活字になったのは初めてのことだった。詩は二篇が紹介されていて、そのうちの「川」という詩に絵がつけられている。108
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