KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2023年5月号
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今村 欣史書 ・ 六車明峰連載エッセイ/喫茶店の書斎から   キャンサークリニックの「紫電改」前号に放射線治療を選んだと書いた。わたしの場合は全20回の治療だった。紹介されたのは西宮市鳴尾にある「明和キャンサークリニック」。お世話になっている明和病院の関連施設である。ゆったりとした待合室には絵画などの飾り物はなにもないのだが、ショーケースが置かれていた。中には飛行機の模型が並んでいて、第二次大戦の末期に米軍を大いに悩ませた戦闘機「紫電改」もあった。なんでここにこんなものが?と思ったのだが、説明書が添えられていた。その一部。《明和病院の源流は川西航空機株式会社 (現新明和工業)が昭和15年6月に開設した診療所に遡ります。第二次世界大戦が勃発して間もない頃、海軍に納める軍用機あるいは飛行艇を制作していた川西航空機が従業員の健康管理を目的としたものです。その後、診療所は鳴尾病院になり(略)、当時の川西龍三社長が戦後の苦難の時期に、「明るくみんなで力を合わせて再起していこう」という大きな夢を込めて、昭和20年10月1日、明和病院に改称しました。明和キャンサークリニックは明和病院のがん治療専門部門として、平成26年3月に開院しました。ここに展示されている飛行機は全て新明和工業に所縁のあるものです。》知らなかった。明和病院には長くお世話になっているのに、そういうことだったのか、と思った次第。川西航空機は「紫電改」を製造していた会社だ。 その製造に携わった人をこれまで三人、別々の機会にインタビュー取材したことがある。わたしにとって興味深いものなのだ。ショーケースの上に『紫電改』(碇義朗著・光人社)という本があった。もちろんわたしは通院の度に手に取った。このクリニックのある「鳴尾」の地名が何度も出て来る。しかし、遅読のわたしは20回の治療の間には読み終えることが出来ず、古本を求めて続きを読んだ。終わりの方の一部を紹介しよう。戦争末期である。「紫電改」の生産工場、鳴尾製作所が空襲されたときの様子。従業員は徴用工なども含め三万人に達していたという。《警報が解除されて工場の近くまでもどってきた社員の一人が倒れている清水工場長を発見した。86

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